カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

  • 流芳後世 おたる 海陽亭 (九)

    日付:2016年01月14日 カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

    『中広間の棟』その1  中広間は、1922年(大正4年)に建てられたが、棟梁など建築に携わった者については不明である。  玄関のある階を基準にすると、基準階より上部分は2階建、基準階より下部分は1階建のいわゆる“吉野建て […]

  • 流芳後世 おたる 海陽亭 (八)

    日付:2016年01月13日 カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

    『2階床の間』~その4  “幸せは、背に柱 前に酒 両手に女 懐に金”  ざれ歌に唄われるように、床柱を背にするのは、今も昔もステータスシンボルの一つであることに変わりがない。  原木のままの本黒檀を、殆ど見ることができ […]

  • 流芳後世 おたる 海陽亭 (七)

    日付:2016年01月11日 カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

     より 『2階床の間』~その3  この床柱を背に、日露国境劃定会議の宴会が開かれたのは、1906年(明治39年)のことである。  当時の写真には、ロシアのウォスクレセンスキー委員長が床柱を背に、その左にアルチェーフー一等 […]

  • 流芳後世 おたる 海陽亭 (六)

    日付:2016年01月10日 カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

    より 「2階床の間」~その一  天井、間仕切り、共に改修された跡がある。  建設当時、床柱は民家の大黒柱と同様、梁間の中心に位置していた。  床の間に向かい、中央に床柱、右に2間の本床、書院という本格的なものであった。 […]

  • 流芳後世 おたる 海陽亭 (五)

    日付:2016年01月09日 カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

    より 「2階間仕切り」  建設当初、大広間は4つの部屋に仕切られていた。  床の間のある部屋から4間、4間、4間、更に2間半と仕切られていた。  4つの部屋は、互いに襖により仕切られ、必要に応じ続けて使うことができた。 […]

  • 流芳後世 おたる 海陽亭 (四)

    日付:2016年01月08日 カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

      『2階大広間天井』  調査の結果、天井は建築当時と変わっていることが判明した。  古い資料から建築当時の資料は、棹縁天井と思われたが詳しい調査の結果、棹縁より上等な猿頬天井であった。  床の間付の部屋は床挿 […]

  • 流芳後世 おたる 海陽亭 (三)

    日付:2016年01月05日 カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

    『2階大広間』  大広間については、従来から1896年(明治29年)の住ノ江大火後再建され、当時のまま、現在に至っていると言われていた。  しかし、この度の調査によって、天井、間仕切り、床の間は改修され、建築当時と異なる […]

  • 流芳後世 おたる 海陽亭 (二)

    日付:2016年01月03日 カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

    『玄関』  玄関には、改修の跡は見受けられないが、建築当時と同じであるかどうかは、判断できなかった。  古い資料の中に、冬の海陽亭の玄関前で、客を写した写真があるが、その写真の玄関の位置は、現在の玄関の位置ではない。写真 […]

  • 流芳後世 おたる 海陽亭 (一)

    日付:2016年01月01日 カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

    「流芳後世」漢語で後の世に名が流るるという意味。  おたる・海陽亭の名が後々の世にも残る事を願って命名した。  題字は現海陽亭社長宮松重雄氏の揮毫。   『大広間の棟』  1896年(明治29年)住ノ江の大火後 […]

  • 日本郵船小史4 (四)明治時代後期(明治31年ー45年)その1

    日付:2015年12月25日 カテゴリー:日本郵船・日本銀行・海陽亭

    函館、小樽は北海道沿岸航路の終起点として、小樽は西海岸及び奥地を、函館は東階段を経済圏に収め仲継港として繁栄したが、鉄道の発達(附図2参照)に伴い小樽のヒンターランドは拡大し、更に日露戦争後樺太千島の仲継基地として小樽は […]