防波堤~汗と涙の“築港ドラマ”
2015年10月11日
桟橋と右側対岸の工場群に新しさが見られるが、それほど変わっていない
船を待つのか別れを惜しむのか、波静かな船着き場に母子の姿-。
風情あるたたずまいは、昭和十年ごろと、現在の第三ふ頭から見た手宮側の港湾部である。
手前の乗船桟橋や対岸の建物に違いは見られるが、時の移り変わりを、それほど感じさせない落ち着きがある。
小樽の港には、古い歴史と、それを築いた人たちの汗と涙の記録が刻み込まれている。
なかでも、北防波堤工事に隠された人間ドラマは、わが国の築港史に残るものだろう。明治三十年五月に着工。延長約千二百九十㍍を完成させるまでに、実に十一年の歳月をかけた。
防波堤の工事では、わが国で三番目。されど波の荒い北の海では前例のない、技術的にも未知の分野に挑戦した画期的な大事業だった。
それが着工から二年目の三十二年十二月二十八日、約三百六十㍍延長した時に大シケに見舞われる。
打ち寄せる荒波は、堤防を十数㍍も越え、その上の桟橋をことごとく海中に洗い流した。
その時の、設計者の広井勇は、短銃をふところに暗夜の海岸線を現場に走った。当時の状況を広井の懐古録は次のように記している。
「応急作業はしたが、なす術はない…中略…。もし堤防が破壊されれば一命を断って謝するしかないと覚悟を決め、過去に工事に失敗して責任を一身に背負って世を去った人たちの心情などを思っているうち、いつの間にか疲れて寝込んでいた。夜半に目覚め、ふと気づくと意外にも波音が静まっている。とにかく現場に行こうと外に出ると、雪は降っていたが風はない。防波堤にたどり着き、その無事な姿を見た瞬間のうれしさはいまだに忘れられない。私はその時、天を仰いで感謝した…」
広井はわが国の近代史に名を遺す内村鑑三、新渡戸稲造らと同じ札幌農学校(現・北大)の第二期卒業生。アメリカやドイツ留学の後あと札幌農学校教授。その後に北防波堤を築き、のちに東京名誉教授となった。
当時、広井は、現場監督が来る前に、毎朝、自分でショベルを握って、工事に使うセメントと砂の配合を調べていたという。
広井の命を懸けた」防波堤が、いまも小樽港の外壁をガッシリと支えている。
~おたる今昔 昭和55年9月17日~10月21日 読売新聞社編より
昨日、釣状況を確かめるため岸壁に行ってみました
こちらの方は、蝦蛄狙い
こちらのご夫婦の狙いは、さば
『小樽の海は、気まぐれです!』
~2015.10.11
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