魁陽亭の坂登った日露代表
2024年02月11日
このところ数年間に小樽駅前は面目を一新したように見える。小樽の再開発はとにかく駅前からというわけであろうか。
駅正面と第一ビルの間のコンクリート壁に、姉妹都市ナホトカ市との友好を示す、素晴らしいデザインのかもめが描かれている。これと同じものがナホトカ市のあるのかどうかはわからない。かつての小樽の繁栄は、当時日本領であった南樺太とナホトカとの貿易にたよるところが大きかった。時代は変わったが、港にかける小樽の執念はすさまじい。駅前の有効シンボルはそんな思いを込めるように、朝日を受けている。
日本海をはさんで小樽と対岸の国とのかかわり合いは、過去の日本の進んで来た道のりそのものである。明治三十九年十一月十六日。この日は日露両国の樺太国境画定委員が一堂に会して、大事業であった北緯五〇度線測定の成功を祝った日である。
会場となった魁陽亭(現在の海陽亭)は山の上町にあり、小樽港を眼下に見るガケの上に立っている。当日、露国委員および日本委員と画定事業の基地であった小樽の代表者計三十九名は南小樽駅に近い坂道を登りつめて魁陽亭に集まった。
日本側の大島健一委員長のあいさつにこたえて、露国側ウォスクレセンスキー委員長は
「二十五年前の北海道は猛獣のすみかであったが今日の発展は驚くほかない。しかし、物には惰力があり、ひとたび惰力に見舞われれば容易に回復できぬ故、その点は大いに反省し、ますます発展されんことを望む。」
と述べた。
今にして思えば、誠に意味深長なあいさつであった。そして、それは敗戦国の委員が戦勝国の国民に向かって述べた言葉としては思い切った大胆な発言でもあった。
三日後の十九日午後五時、小樽区民有志による両国委員の歓迎会が住吉座で開かれた。当時の報道によると「このたびの会は外国人の招待会であるから、服装はフロックコート、または紋付羽織とし、集合時刻は午後四時半厳守」となっている。
七十年前の小樽の名士がフロックに身をかためた姿を想像するとともに、今でも悪名高い小樽時間がすでに当時から問題になっていたことは興味深いものがある。
~小樽 坂と歴史の港町 朝日新聞小樽通信局編 より
12月1日 海陽亭の坂
『大胆な発言の裏に、第二次大戦後の日本に対する数々の現実(シベリア抑留、留萌沖 三船殉難事件、北方領土問題、留萌釧路間ライン…)が含まれていたのではないでしょうか?』
~2016.1.12
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