入船河口~東西発展の〝かなめ”

2014年12月03日

CIMG7882東西発展の“かなめ”

 片田舎を思わせる写真はいまからざっと百年前、明治十年ごろに撮影された。

 小樽夜明けの時代を伝える貴重な写真である。

 当時の小樽の人口は、約千戸六千人。佐久間範造という人物が、勝納川左岸で写真館を始めたというから、街もすでに相当栄えていたに違いない。

 写真は当時の入船河口付近の風景で、背景の丘は、今の海陽亭のある高台。丘の坂道を登ったところに“ほこら”があって、そこが住吉神社発祥の地だという。

 道路工事だろうか、綿入れのはんてんを着た作業員もいる。軒の低い家の造りと、屋根に並べられた石の列は、風雪に耐え忍んだ当時の生活の知恵だろう。

 「小樽の街は、この入船川を境に、東から西に発展したわけです。」小樽文化史を編集した渡辺悌之助さん(七〇)の話だ。

 渡辺さんは小樽四代目。初代は、ほっかいどうに開拓使が置かれた明治二年、新潟から小樽にやって来た。

 「古い地図を見ますとねえ。明治の初めまでは交易の帆船や家並みが、入船川の東側の信香から勝納方面に集まっている。川の西側の海岸線は奇岩怪岩がごろごろしていて、人も余り入らなかったんですねえ。」

 それが、明治十四年五月を機に、繁栄の中心地が川の西側の色内、手宮方向になだれ込むように移ることになる。

 その前年の明治十三年に手宮ー札幌間の鉄道が開通。同時に西側の海岸線も石炭積み出し港として一新された。

 利にさとく、攻めの商法を得意とする小樽商人が、この動きをじっと見ていた十四年四月、街は大火に見舞われた。川東の信香、勝納一帯が焼き尽くされたのだ。

 大火の打撃は大きかった。だが小樽商人は、この災いを川西に移る転機として生かした。逆にいえば、大火は転身のふんぎりをつける千載一遇のチャンスだったともいえる。

 写真でご覧のように、現在は河口が暗きょ化されて、その上を道道臨港線が走る。

 臨港線の先は、小樽の将来の街づくりが議論されている小樽運河である。

~おたる今昔 昭和55年9月17日~10月21日連載 読売新聞社編 より

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