実態調査(92年)から その11~明治42年石造倉庫は146棟
2014年12月12日
(2)明治22年(1889年)、於古発川から手宮にかけた汀線の埋め立てが完成。北浜、南浜の両町(現・色内)が造成され、また砂崎町(堺町前面)の埋立地もできる。この用地に石造倉庫がつぎつぎに建ち、営業倉庫が主体の港湾都市小樽を象徴する建築風景が現出する。
『小樽運河史』によれば、小樽の石造建築は、明治6年の建築が最も早く、例外なしに木骨石造で、瓦葺の構造であった。瓦は当初は越前三国から移入、後年は道産品を使った。同書が揚げる有幌から手宮にかけた石造倉庫の棟数は明治24年41棟、28年64棟、39年132棟、42年146棟を数えたという。大正13年に完成式を挙行した小樽運河の建設に先行して、石造倉庫が立ち並んだのである。
石造建築は、現・大通線沿いの店舗建築にも採用されるようになる。同時に、職住分離の形態が見られるようになり、大通線沿いには店舗と附属倉庫のみを建て、経営者の住宅は、眺望のすぐれた高台に建築するものが多くなる。小樽市博物館蔵の「小樽明細案内図」(明治26年)は、石造店舗が増加しつつあった当時の景況を示す注目すべき資料である。
(3)入船川左岸の花園・稲穂地区は、丘陵の起伏がはげしく、急な斜面で覆われていたため、開発が遅れた。『小樽市史』によれば、現・入船1丁目の量徳寺横の現・大通北線は初め、斜面を片切りする断面であったらしく、量徳寺の境内は崖上となっていた。明治20年代末期に崖を崩し、地均しを行い、今日の地形に改めたという。
現・花園町一帯が水天宮の山と台地で続いていたことは、先にふれた。同じく『小樽市史』によれば、明治38年(1905年)ころから5,6年かけて、土地所有者の計画で、切り崩し、商店、料亭、劇場向けを意図した宅地造成を実施し、今日の繁華街としたという。
現・稲穂地区は、花園地区よりも、もっと複雑な地形であったらしく、現・小樽駅下付近は、くぼ地になっていて、池もあったという。明治28年(1895年)頃から同35年(1902年)くらいにかけて、土地所有者による大規模な宅地造成が施工され、約12mにも及ぶ高所を切りとり、また同程度の低所に盛り土を施工して、現在の道路、宅地を造出したという。
明治37年(1904年)5月8日、現在の稲穂2丁目から出火し、現在の大通北船以東の稲穂一帯と色内から石山を超えて手宮の一部まで及ぶ2500余戸を焼失する大火となった。被災地は会社、問屋、銀行などが集中する小樽経済の中心区域である。
「小樽区明治三十七年五月八日大火災地同市区改正地域明細図」(小樽市役所蔵)は、罹災区域を示し、小樽区が実施した「市区改正」事業による道路拡幅、新設計画を示している。この図によれば、鉄道線路(手宮線)から港側だけに家屋が密集し、山側はほとんど畑地の状況であった。
さらに同39年6月24日、色内から於古発川下流河畔にかけて250戸を焼失する大火が発生した。商家、民家が密集し、街区も雑然としていたが、その罹災地区についても「市区改正」を実施し、明治40年さきの明治37年大火区域と合せて、全部の工事を終了する。現在の稲穂・色内の市街構成の骨格は、この時点で出来上った。
手宮への帰り道、運河に寄ってみました。
浮き球ツリーと鯱
実態調査(1992年)から その10 は、12月2日に掲載しています。
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