なぜ幻の魚に(三)
2014年09月20日
”江差の五月は江戸にもない”
と北海道の繁栄を誇っていた鰊、ほっかいどうにあんなに来遊していた鰊が、なぜこんなに獲れなくなったんだろう。
北海道の史上最高の春鰊漁獲高は明治三十年(一八九七年)の百三十万石(約九十八万㌧)といわれている。以来下降線をたどりながらも全体的にも漁獲が続けられてきた。
昭和二十九年に日本海沿岸に最後の郡来(十五万五千石)を境に鰊はそれっきり姿を見せなくなった。
その後、毎年春になると、日本海の沿岸にわずかながらも鰊が思い出したように接岸するが、これは別の生態の鰊と言われている。私達鰊に関係のあった者は勿論一般の人達も全く不思議に思う次第であった。
鰊に関係のある人達は、この原因、理由をいろいろな角度から、何年もの日数と時間をかけて調査研究してきたが、これが唯一確たる原因だというものはないようだ。ないというよりわからないといった方がよいのかも知れない。
漁村の人達はこの原因、理由について
一、海流の変化によ鰊の接岸に適さなくなった。
一、鰊の濫獲により資源が枯渇してしまった。
一、化学の進歩に伴う工場などの汚毒が河川に流れ込んで、沿岸が汚濁し、鰊が寄りつかなくなった。
一、沿岸の鰊産卵期における水温の上昇で、鰊が沖合で底群来してせつがんしなくなった。
などと自然的な理由と人為的な原因をかかげて論じていた。
一方、不漁の原因、来遊しない理由について、ある学者は慢性的な海洋条件の悪化により、鰊の稚魚は従来とは異なるエサの少ない海域に運ばれ、死滅したのではないかともいっている。
海洋条件によるという見方はソ連の学者もいっており、人為的な影響よりも自然条件によって鰊資源が減少し、来遊しなくなったとみるのが大方の意見のようだ
いまは故人となったが磯谷に佐藤栄五郎氏という鰊漁場の親方がいた。
新 北のさかなたち 漁業生物図鑑より
喜びと嘆きの八十年~そこで知り得たのは、鰊漁場の経営は大変難しいもの、危険を伴う投機事業である、ということだった。当たれば一夜成り金が誕生するのが鰊漁であれば、没落するのも鰊漁だった。
これでもうけた親方の生活というのは、まったく豪勢なものだった。なかには連日連夜、花柳界で豪遊、全財産を使い果たす親方もいた。翌年の経営資金に行き詰まり、苦しまぎれの青田売りや月一分の利息、それに出来高の一〇~二〇%渡しという厳しい条件の融資を受けて着業する親方もいたほどだ。
昔から鰊漁は三年豊漁でも、そのあと一年不漁になるとダウンするというくらいだから、経営者は経験と経済観念を持たなければ漁場を存続させることは困難だった。鰊漁業者で富を残した人はまれ、ということでも、いかに経営が難しかったかがわかる。
追伸
いつまで降り続くんだろうと心配になった。夜中の雨でしたが、夜明け前にはすっかり上がりました。
今年 13回も寄港してくれたサンプリンセス(バミューダ船籍)~残念ながら来年は見ることが出来ません
ここで問題です。
いま、ここに船は何隻いるでしょう? 3秒以内。
3、
2、
1、
正解は、5隻でした。
木々の色が緑からき、あか、ちゃなどたくさんの色を楽しませてくれるようになってきました。
秋の山の味覚を探しに出かけました。
満足な収穫が出来たので帰ろうとした時、ミニミニの崖からころげ落ちてしまいました。
すると、カラスが驚いて、ガーガー飛び回っていました。
思わず、
「びっくりしたのは、こっち‼」
そば会席 小笠原
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