港と小樽  盛衰  技術者たち

2014年11月05日

 DVC00004.JPG技術の粋 集めた防波堤  今も続く長期耐久試験

 

小樽港南防波堤の基部にあたる小樽開建小樽港湾建設事務所。少し緊張した表情の職員たちが六月八日、恒例のコンクリート耐久性試験を行った。緊張の理由は、今年の試験がこれまでと違ったことがある。ちょうど百年前に造られたコンクリート片を初めて試験にかけるからだ。

 「広井勇の先見の明に感心します。」同事務所の中川伸一・第二計画課長は話す。広井勇(一八六二年~一九二八)は同事務所の初代所長にあたる小樽築港事務所長として、北防波堤の築堤に従事した。耐久性試験もコンクリートの劣化度合いを実証するため広井が発案したことで、世界的にまれな試験が今も続けられている。

 一八九七年(明治三十年)五月から始まった小樽港の防波堤工事は広井が行った第一期(一九〇八年まで)で北防波堤、続く第二期(一九〇九~二十二)では北防波堤の延長や島、南の各防波堤を建設した。後の小樽が繁栄する基礎を作った。ほか、工事の過程ではさまざまな技術が工夫され国内の土木史上の節目としても位置づけられる。

 当時の港湾建設は技術的に未発達で、横浜など他港の工事ではコンクリートに亀裂が生じるなど工事への信頼が損なわれていた。広井は、国内で初めて、セメントに火山灰を混入する手法を導入して、ひび割れを回避。波の力の計算式である「広井公式」もごく最近まで、各地の防波堤の設計に持ちいれられた。第二次所長として、第二期工事を指揮した伊藤長右衛門(1875年~1939年)も独自の技術を考案。浮きドックを使って製作していた防波堤のケーソンを陸上で造り、斜路を使って海中に落とす進水方式を世界で初めて導入した。

 そして今、八鍬隆・小樽築港港湾建設事務所長は「いずれの技術も、当時としては画期的なチャレンジ。土木の専門家にとって、小樽は聖地のような場所。」と評価する。

 北防波堤工事が完了した際の竣工(しゅんこう)式典。苦労を共にした作業員たちがその場に招待されていないことを知った広井は、後日、彼らを自費で北防波堤上に招き、盛大な宴も開催したという。困難に直面しながら創意と工夫で克服した技術者のエピソードは、どこか人間くさい。

 広井の片腕として第一期工事に従事した技師の青木政徳は過労がたたり、35歳の若さで死去したと伝えられる。広井、伊藤のほかに多くの人たちの献身があって、その後、一世紀近くも港と街を守り続ける防波堤が完成したともいえる。

 青木の功績をたたえる碑は北防波堤が完成後に手宮公園内に建ち、今も高台から港を見下ろす。小樽公園内にある広井と伊藤の胸像も、近く市民有志の手でより港に近い運河公園に移され、開港百周年に当たる八月四日に除幕される予定だ。

 

(文章は ~港と小樽 第1部  盛衰  ③ 技術者たち   1999年(平成11年)6月29日~10月30日 北海道新聞社編~ より)

 

CIMG7236築港工事に携わった技師たち(後列右側が広井勇博士)

と 当時の手宮桟橋

 

第2代小樽築港事務所 伊藤長右衛門所長はこのケーソンを陸上の斜路上で作り、海中にすべり落とす進水方式を採用した。

CIMG7238ケーソンヤード(斜路)

CIMG7223ケーソンの進水

 (写真集 小樽築港100年のあゆみ より)

 

 CIMG7243北防波堤

CIMG7264南防波堤

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~2014.8.25