土木は面白い Ⅴol.1 から 

2014年10月31日

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小樽港北防波堤と広井勇博士

 

広井勇博士という人を知っていますか?

そして北海道の小樽という街を知っていますか?

 

その小樽の山の上の展望台から港を見ると、小樽の港を抱きかかえるように北側の手宮と南側の平磯岬のそれぞれから防波堤が伸びています。その北側か伸びる北防波堤を日本初のコンクリート製外洋防波堤として建設したのが広井勇博士です。

 

当時、日本の港湾建設は失敗続きでした。初代築港事務所長だった広井勇博士は防波堤に当たる波の強さを測定し、防波堤に使うコンクリートの性能を試験し、日本初のコンクリート製の外洋防波堤を建設しました。小樽港の成功によって日本の近代港湾の整備が進みました。そのことから、小樽港の防波堤、特に北防波堤は重要文化財と同じくらいの価値を持つと評価されています。

 

時代背景

広井勇博士が生きた時代19世紀は産業の発展した時代です。世界中に鉄道と船で物が運ばれ、世界経済が大きく成長しました。鉄道と港は経済の成長のための一番基礎になる施設だったのです。

 明治の日本でも同様で、世界中の大きな国と並ぶ国家の建設を目指す明治政府は1880年(明治13年)に北海道の炭鉱から石炭を運ぶために手宮ー札幌間に日本で3番目の鉄道を敷設しました。新橋ー横浜と神戸ー大阪に次ぐものです。後の1882年(明治15年)には札幌から岩見沢へ伸び、今の三笠市幌内(みかさしほろない)炭鉱まで延長されます。

 その石炭を運び出すために明治42年には小樽港には高架桟橋と呼ばれる巨大な木でできた桟橋が作られました幅22m、高さ19メートル、全長392㍍(海上部289㍍)というとても木でできているとは信じがたいような大きさで、幌内から運ばれた石炭を積んだ貨物列車が行き来していました。小樽は開拓使による開発が進んでいた札幌に近く、北海道に入る物資の荷揚げ地としてもその役割が高まっていました。すでに「特別輸出港」として指定されていましたが、1899年(明治32年)には「国際貿易港」の指定を受けて完全な貿易港となります。これによって小樽は本格的な発展を始めました。

 明治の後期から大正になると、小樽港は北海道の北半分に加えて十勝地方の物資が集まってくるようになります。石炭や米に加えて、豆、雑穀、澱粉などの穀物が集められ、東アジアを中心にヨーロッパにまでも物資を送り出します。

 外国貿易や物流の中心の一つとして発展した小樽の運河沿いには多くの石造り倉庫が並び、その近くには三菱や三井などの大銀行の支店が並びます。その頃の小樽は「北のウォール街」とよばれて世界中の経済に影響を与えるほどの勢いを誇っていました。

~北海道工業大学(現 北海道科学大学)ホームページより~

 続く

 

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CIMG6764手宮からのびる北防波堤

CIMG5942平磯岬からのびる南防波堤