能島邸と能島通り
2014年08月13日
小樽稲荷神社から見た
ん~
築後百二十六年 ~(今はこの記事からさらに二十年経っています。)
豪商のたたずまいを今に伝える
明治元年 能島邸
~手宮地区の商店街のメインストリートは古くから能島通りと呼ばれています。これは地域名ではなく個人名から来ています。その能島通りの角地に築後一二六年の歴史を持つ能島さんの邸宅があります。・・・・・。この邸宅は明治元年に石川県の能登から来た大工が請け負って建てました。木造一部二階建て、建坪は二四五坪。石蔵は74坪という大きさです。
能島家の初代は安政六年(一八五九年)に石川県能登からわたってきた能島繁蔵さんです。繁蔵さんは大変苦労をして手宮地区の開拓を進めました。慶応二年には店舗を当時小樽の中心地だった入舟町に設けます。三隻の北前船で石川県能登半島と北海道の定期航路を開設し、お米、味噌、醤油そのほかありとあらゆる日用荒物雑貨の商取引をおこない財を成します。明治二十九年には、屯田銀行あてに当座小切手壱萬円を振り出したりしました。現在でも記録が残っています。大商人として活躍していたわけです。現在の能島家の礎を築きました。
二代目の誕生の年にこの邸宅を建てました。以来一世紀以上にわたって厳然たる姿で当時をしのばせています。しかも、現在でも少しくらいの地震ではビクともしないといいます。土台の基礎部分はなんと、丸い原木をそのまま使っているからです。材料は、檜。これはすべて石川県能登から取り寄せたものです。
屋根の柾は釘ではなく竹クニを使うという凝りよう。また、明治元年の建物にもかかわらず、すでに洋間があるというのも大変珍しかったと思われます。しかも、洋間内部に床の間が作られているのです。進取の気質で財を成した初代の先見の明の一つのあらわれかとも見えます。
内部の廊下はなんと、一間もの幅。まるでお城の廊下のようです。以前、本州の建築学者が訪ねて来て「この建物は武家屋敷風の造りですね。」とおっしゃったそうです。槍が外部から飛んできても居間にいる家人に当たらないような構造とか。玄関正面には東郷平八郎元帥、直筆の額があり、その書は「神爽」と書かれています。
明治十四年に色内町に大火がありました。その際に、能島家は市(区)に多額の寄付をした上、人夫五十人を火災現場に動員しました。また海を埋め立てる工事費用も全額能島さんが持ったと記されています。
邸宅左手の石蔵は桃内軟石を使用、屋根の瓦にはㇸ吉と屋号が刻印されています。
能島さんの邸宅は当時の隆盛ぶりがあちらこちらに感じられる造りです。しかしこれだけの歴史的建造物を維持していくことは大変なことです。先祖への尊敬の念と愛情がその支えととなっているようです。
~語り継がれる町 おたる 第3号 平成6年7.15 小樽道新販売会 より …20年前~
「あのう、能島邸はここなんでしょうか?」
「そうですよ、今でもいらっしゃると思いますよ。ここら一帯の地主さんですよ。」
「この通りが、能島通りですか?」
「そうですよ。十間坂まで続いていますよ。」
そば会席 小笠原
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