初めての休日

2024年11月26日

根室海峡、「鮭の聖地」の物語

北海道最東の海、根室海峡。ここでは遥か一万年もの間、絶えず人々の営みが続いてきました。その暮らしを支えてきたのは、大地と海を往来し、あらゆる生命の糧となった鮭でした。毎年秋に繰り返される鮭の遡上は、自然と人間、さらには人間同士の異文化間における衝突と共生を促し、数々の物語を紡いできました。人々の絶え間ない交流が生まれる場として、現在の北方領土を含むこの地の大地と海は、長く日本の東門の役割を果たしてきたのです。

江戸時代、最高級の品質で知られ、将軍家への献上品の一つであった根室海峡の鮭、その〝ブランド力〟ゆえに、南下するロシアとの衝突や、アイヌからの労働搾取などの軋轢を生むこともありました。しかし、幕末、会津藩がこの地の警備と開拓を命じられたとき、一人の会津藩士によって水産業の灯がともされます。衝突から和平へ、強制から共生へ。

やがてこの地には人と鮭が行き来する海路、陸路、鉄路、道路という「道」が生まれ、今は大衆魚となった鮭が日本各地へ運ばれています。

一万年に及ぶ時の流れの中で鮭に笑い、鮭に泣いた根室海峡沿岸。ここは今も昔もこれからも、人と自然、あらゆるものが鮭とつながる「鮭の聖地」なのです。

 

江戸時代のブランド、根室海峡の鮭と鱒の絵図「鱒形図拾壱品鮭形図四品」(別海町郷土資料館所蔵)

9月8日

今日、行ってみたい場所があります

自転車で

目指しました

途中 何度も引き返そうかと…

思いながらも

アイヌ語の教書

 二代目標津代官を務めた南摩綱紀は、若き頃浦賀に来航した黒船を目の当たりにし、西洋文明の先進性を痛感させられます。以後洋学に励み、異文化を理解する心を持つようになります。

 会津藩が蝦夷地に新領地を得た際、現地に暮らすアイヌとともに開拓を目指すには、互いが培ってきた歴史文化の違いを理解し合うことが大切と考えます。そこで実践したのが、和人の文化風習や考え方を、アイヌ語で伝える異文化理解の活動でした。アイヌ語に長けた加賀伝蔵に、和人の子弟が用いた儒教の教書をアイヌ語に翻訳させ、その教書を持ってアイヌの村をまわり、熱心に教育活動を行いました。

 南摩は和人の文化をアイヌに伝える一方で、自らもアイヌの文化風習や考え方を学んだため、多くのアイヌから慕われたといわれています。

国後島方面へ延びる鮭の定置網を眺めながら

なんとか たどり着きました

ナラワラ

そして

そして

十数年前来たときは

たくさんあった

トドマツの木が…

アッケシソウの群生地になるのかもしれません

宿舎に戻り、昼食後は、

旧標津線終着駅

昭和12年より半世紀に渡り走り続けてきた標津線は平成元年4月29日廃止されました。現在残る転車台跡に今も鉄道ファンが訪れています

訪ねてみました