「首里城久慶門より浦添番所まで」そして浦添城へ

2024年08月01日

坂(ビラ)越えの道を彩る宿道風情

 首里城外郭の通用門であった久慶門を起点として浦添番所へむかう宿道は、首里城下の優美な石畳道を通り、宿道風情を彩るいくつかの坂を越え、旧王都浦添へ延びていた。

 ぽつりぽつりと残る宿道の面影は、雑然とした民家のかたわらに、近代的なビルディングの影に、うちすてられた原野や雑草の中に埋まるようにしてひっそりと影をひそめている。

中頭・国頭西街道の起点となった久慶門

 変化に富んだ石段がひときわ美しい久慶門が起点である。…、

園比屋武御嶽石門の手前の石段(かつては小路であった)を下り降り龍淵橋を渡る。…。

龍淵橋は、弁財天堂を浮かべた円鑑池と龍潭の間に架けられたアーチ型の美しい橋で、三心円の拱門形式の石橋である。

 かつては両側にハンタン山と安国山があり、緑したたる幽玄な趣をたたえていたという。大戦中には司令部の衛兵壕があり、この一帯は特に戦災がひどかったと言われている。…。

県立芸大の敷地内に姿を消した宿道は、一九〇五(明治三八)年の沖縄師範学校の拡張工事の際に完全に消滅してしまったという。…。

…民家の一隅にひっそりとたたずむ御嶽前を通りカラー舗装された坂を下る。…。

安谷川坂(アダニガ—ダキをおりたところで、付近では儀保川(ジーブガーラ)とよばれている真嘉比川に架かる小橋(下橋口)を渡り、さらに北上して県道二八号線(桃原本通り)と合流する。

県道と合流した宿道は、往時の面影をすっかり失って交通混雑の激しい儀保交差点に至る。…。

ややゆるやかな登り坂の舗装道路にかわり、三〇mほどもすすむと下り坂となって

太平橋(平良橋)へとつづく。

セメント造りの階段、そしてゆるやかな弧を描くように上り下りする舗装道こそ、「おもろ」で「ぎぼくびり」として謡われ、「浦添城の前の碑」では尚寧王の詔によって道を石畳にさせたことが記されている。「儀保くびり」であり、

またの名を「儀保坂」(ジーブビラ)とよばれる宿道である。…。

太平橋(現平良橋)を渡ると首里農業協同組合平出張所のむかいから県道二四一号線を横断して県道一五三号線に入り大名をめざす。…。

道路の右わきに大名集落にむかって下り降りる急峻な坂道が民家の塀沿いに見える。

「フェーヌフィラ」とよばれるかつての宿道である。坂道の入り口は車止めがあり、車の侵入を阻んでいる。

二〇mほどの急な坂を下りていくと、平らなみちとなり、ほどなくして沢砥川上流の用水路に架かる経塚橋を渡る。…。

橋を渡ると道は、首里大名と浦添市を分けるアスファルト道によって寸断されるものの、そのまま直線的に延び、カラー舗装された急峻な登り坂となって民家を分けて北上する。

急な上り坂は「ニシヌフィラ」とよばれている。フェーヌフィラからニシヌフィラまでほぼ一直線に結ばれるのだが、宅地造成によって視界がさえぎられてしまっている。

かつては石畳の道であったそうだが、その面影を伝えてくれるところはどこにもない。

ニシヌフィラを登りつめると、沢砥方面から仲間方面へ行く幅広のアスファルト道に出る。アスファルト道をしばらく進むと、右曲がりのゆるやかな下り坂となって県道一五三号線と合流する。途中、東側の低地帯にひろがる住宅地が見おろせるが、ここは安波茶川の上流にあたり、かつては水田や畑地のひろがるのどかな田園的な風情にあふれていたという。背後の小高い森に残る緑深い樹林以外、当時の面影を伝えるものは何一つ見ることはできない。…。

県道一三五号線と重なった宿道は、そのまま北上し、史跡「経塚の碑」の建つ経毛(チュウモウ)前で左折して、旧経塚公民館前を通り地元でアブチガーラとよばれる小湾川の上流に架けられた安波茶橋へと下っていく。

その昔、リュウキュウマツが生い茂り、人里はなれた淋しい場所で、ここに巣くう妖怪が道行く人をたぶらかした、という伝説を残す経塚の碑の建つ経毛も、今日では小公園として見違えるほど整備され、芝生が敷き詰められベンチも配されて雰囲気が一新している。

また、経塚の碑背後にひろがっていた雑地も区画整理された新興の住宅地として生まれ変わり、往時の面影を伝えてくれるものは何一つ残されていない。

深い茂みの中に残されていた安波茶川へ下り降り街道一の難所であったという宿道も消えてしまった。

小湾川は安波茶橋のところで仲間集落からの支流と前田集落からの支流が合流し大きな流れを作っている。また、ここは経塚、安波茶、仲間のそれぞれの集落が接するところであり、

かつての道は、小湾川を越すのにそれぞれの支流に架けられた単拱の石橋を利用したということだが、今日残されているのは北側のアーチ型の美しい石橋のみである。…。

安波茶橋を渡り、急斜面を登り県道一五三号線と合流する間も地形の変容が大きく、道筋を確定することすらできない。

宿道の道筋が再び顔を出すのは、県道を10mほど進み、右折して浦添病院横を抜ける小道である。

小路をそのまま進むと浦添番所にたどり着く。番所跡は現在浦添中学校敷地となっており、往時の面影を伝えるものは何一つ残されていない。

浦添中学校敷地横には、薩摩軍によって焼き払われたと伝わる「龍福寺跡」である。

再建中の首里城

 

昨年今年と二年かけて 国王がたどったという

首里城から

浦添番所そして浦添城までようやく歩くことが出来ました

 

『次は普天間宮を目指そうかな?』