最も知られている日本人

2024年07月16日

五年前

『よしっ、人生最後の夢は、台湾での一年間の修行にしよう。』

と、決めました。

面接を受けた次の日

さっそく

下見に出かけました。

台湾をほぼ一周してきました。

 

一番印象に残っているのが、現地の添乗員さんの言葉

『八田与一を知っていますか?台湾で一番知られている日本人です。』

そしてビデオを見せてくれました。

現地の方と親しくしながら、苦労の末に、ついにダムを完成させました。

『このような日本人もいたんだ。』と…。

この本にも 載っていました

八田与一

 八田与一は石川県今町村(現金沢氏今町)の旧家に生まれ、県立第一中学、第四高を経て東京帝大工科大学土木工学科に入学した。学生時代から彼の独創的発想は広井の注目するところだった。その大胆な発想を「八田の大風呂敷」と評する者もいたが、彼のプランは常に現地調査に基づくものだった。明治四十三年(一九一〇)大学卒業後、当時日本の植民地だった台湾にわたり台湾総督府技師となった。

「日本人と台湾人とをわけ隔てなく付き合うようにして欲しい」

 広井の助言である

 彼は台湾南部の下水道の設計施工などを進んで行い経験を積んだ。大正五年(一九一六)、南方初頭の用排水の調査を命じられ、ジャワ、ボルネオ、セレベス、シンガポール、フィリピン、アモイ、香港で調査した。その後彼は台湾近代化の施設整備を次々手掛けた。

 中でも台湾南部最大の平原・嘉南平原での貯水池(ダム湖)と排水路の建設計画とその実現は今日も台湾の人々に感謝されている。十五万ヘクタールもの広大な平原は、雨期には繰り返し洪水に見舞われ、また乾期には飲料水すら確保できない不毛の地だった。また海岸が近いため海風と砂にしみついた塩分の影響で植物が育たず、この大平原は洪水・干ばつ・塩害の三重苦に攻められていた。しかもこの平原の開墾はオランダ人技術者らによって過去何度も試みられたものの、一度も成功しなかった。

 土木技術は国民の生命と財産を救う技術であるとは、恩師広井の言葉である。八田は現地調査の結果、この平原を救うには一大貯水池を掘って畑に配水し、また排水路を造って塩分を取り除く必要があるとの結論に至った。具体的には、①洪水対策と農業用水確保のために烏山頭ダムを建設する。②平原に広く排水するためダムの北と南に幹線水路を建設する。③南北の伸びた幹線水路から小さな水路を枝状に伸ばし広く田畑に配水し海に排水する。調査は八〇人の部下と共に行われたが、熱帯の猛暑とマラリアなどの風土病と闘いながら続けられ、大正九年(一九二〇)東洋一の一大ダム建設工事が始まった。

 彼は工事に専念するため、総督府技師を辞任し新しく設立された水利組合技師となった。工事総監督の彼は三四歳だった。昭和五年(一九三〇)烏山頭ダムをはじめ一万六〇〇〇キロの水路、水門、導水堰、発電所、潮止堤など四〇〇〇もの関連施設を完成させた。通水三年後、年間※八万三〇〇〇トン増収穫、金額にして米八〇〇万円、サツマイモ一一五〇万円、雑作物一一〇万円、合計二〇〇〇万円余りの価値を生み出した。六〇万の農民たちは八田に深く感謝し記念の銅像をダムの傍らに建てることを申し入れた。八田はこれを強く拒んだが、農民たちの熱意をくんで最終的には了解した。この烏山頭ダムはアメリカ土木学会から高く評価され、「八田ダム」と呼ばれて広く世界に紹介された。

 …

借りてきました 廣井山脈

北防波堤

 

一凛 オオウバユリ

 

残念ながら

その後のコロナ禍のため

台湾での修業は断念😢