商標に泥ぬるな 吉村伝次郎

2025年04月21日

〝良心〟が三馬を築く

 全国ゴム業界の五塔にかぞえられる三馬ゴムの社長とは思われないほどざっくばらんの人だ。以前は非常に熱情的でおこりっぽい性格だったといわれているが最近では他人のことばもよく聞き、冷静に物事を処理する人格者。

 『もともと、吉村という男は、卓越した人間ではない。にもかかわらず、世間が吉村のなかに見いだす長所は、吉村自身が努力して作ったものだ。自分に打ち勝つということは普通のワザではない。こうしたところに吉村の偉さがある』と伝次郎の人物評をある側近の一人がこういっている。

 伝次郎は昭和八年、大学を卒業すると三ッ馬護謨(ゴム)工業の仙台工場で二年間工員生活を送った。その後、父母が経営する小樽の第一産業に専務として入社、二十三歳の青年経営者となった。

 昭和十三年、奥沢町周辺にあったゴム工場六社が企業整備で併合三和ゴムが設立された。伝次郎はその手腕を見込まれ専務として迎えられた。社長が仙台住まいの関係から、実際は専務が経営のさいはいを振った。競争相手の『三ッ馬護謨に敗けるな…』を相ことばに従業員を激励、新しい機械を設備三ッ馬護謨のガ城へ迫った。

 しかし、第二次企業整備が十八年に行なわれ、三和と三ッ馬は合併、社名を三馬ゴムとした。さらに翌年、軍需省要請でと横浜護謨の共同出資から北斗ゴムが誕生、伝次郎は合併会社の〇〇、また新会社の常務となり、幅広い活躍をすることとなった。終戦直後のドサクサ時代。ふとしたことから会社はひどい打撃を受けた。『いよいよダメか…』と強気の伝次郎も気を落としていたとき、士官学校出元将校で当時係長だった部下(現重役)が「会社経営のことはよくわかりませんが、軍隊の作戦要務令に、戦いやぶれたときの司令官の身の処し方を書いたものがあります」とその一節を読み上げた。『おいもう一回読んでみろ』「ハイ…」『よしッ』大きくうなづいた伝次郎は『敗戦の将は引きぎわがむずかしいものだ。経営者も軍人もその精神には変わりないはず』と、これを転機に立ち直り、再び陣頭指揮みごとに再建したというエピソードが残っている。

 その後、三馬と北斗の両ゴム会社は合併、間もなくして伝次郎は社長に就任した。二十五年、十数年にわたった統制経済が終わり、防波堤のない自由経済の荒波を受けることになった。しかし当時は何をつくっても売れる時代だった『どうせ売れるんだからといって品質を落とすな、商標に泥をぬるようなことは決してするな』ときびしく品質の低下をいましめたがこの良心が今日を築き上げる一因となった。

 また、伝次郎は業界のパイオニアである。国内需要のほか輸出に力を入れ、二十六年にアメリカに渡り、ゴム靴の生産合理化を研究、三十五年にはモスクワの国際見本市に出席、国産ゴムぐつを出品、これがきっかけで輸出に成功、対中貿易に窓口を開いた功績は高く評価されている。現在三馬ゴムの輸出額は年間五億円にものぼり、小樽での一大主要輸出品だ。

 三馬ゴムは三十八年に完成したマンモス奥沢工場に、天神、北斗工場さらに〇〇板橋工場とある。

主要製品はゴムぐつ。そのほかゴムがっぱ、工業用ゴムやミックロンを生産しているが『将来はミックロンなどの化成会社の育成に務める。また販売では沿岸貿易に力を入れたい。』と力強く語る。

 伝次郎はそれを必ず実行するだろう。五十四歳といういまが働き盛りの伝次郎は広く日本の化学工業発展のために活躍することを期待できる人だ。

小樽経済百年の百人㉟

北海タイムス社編

昭和40年8月12日

 

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