絶え間ない活動 荒田太吉

2025年04月19日

海運―炭鉱に多角経営

『時局の流れにさからうことなく、機を見きわめるのにたけた人…』といわれる太吉は明治七年福井県丸岡町の生まれ。同三十年春四月、二十歳にして単身北海道に渡ったときから、実業界に生き抜く心が定まっていた。

 東のはずれ根室で水産業に従事その後網走、樺太を転々とし、雑貨店、漁業、漁網、米穀商などありとあらゆる職について、自ら苦難の道を求めた。

 樺太は大泊町で、亜庭水産組合の評議員や大泊本町総代に選ばれたのもこのころ。三十代になったばかりだった。明治四十三年小樽に渡り、海陸物産商を営み、夢かなって実業の道に飛び込んだ。

 大正六年、荒田汽船株式会社を創設、汽船七隻をフル運航して道内はもとより、本州各地、樺太に航路を開発、海産物産の輸送に当たった。現在の三菱石油代理店に移行した昭和四年には、合資会社荒田商会を設立、海運業のほか、漁業、農業、鉱油販売業など多角経営、細いからエネルギッシュな活躍を続けた。

 さらに昭和十二年には太興汽船株式会社、十三年は東芦別炭鉱株式会社、十四年日東ゴム株式会社(のちの東和ゴム)をおこしたり、古宇の泊村付近で金、銀、道、亜鉛、鉛鉱の茂岩鉱山を経営したり、その絶え間ない活躍ぶりは、現役を退いた現在もなお、社内や業界の語り草となっている。

 寄る年波にはかてず、長男清司に譲って、いまは会長職。ゆうゆう自適の生活を送っているが、この間、帝国水難救済会から一、三等有功賞、海運協会から紺授褒章、恩〇〇団救済会からは緑葉特別賞日赤有功賞など、かずかずの賞を受けたことからも、小樽経済界に尽くした功績は大きい。とくに戦後間もなく公安委員長を引き受け、混乱した世相の中で、重責を果たし、「さすが良識の人荒田太吉だけある」と、ほめられたこともある。

 『努力は幸福の第一歩』『工夫するところに進歩あり』『信用は無限の資本なり』-社訓には人間太吉の人柄が如実ににじみ出ている。

(敬称略)

北海タイムス社編

昭和40年8月