誠実一本やりで 池田直治

2025年02月01日

大東産業の基礎を築く

 『いかなる人に要する場合でも誠実でなければならない』を口癖にしている直治は、昭和三十九年二月五日労務者の池田惣太郎の四男として小樽市花園町東二でうぶ声をああげた。

 父が労務者で収入が少なく家が貧しかったため堺高等尋常小学校を卒業と同時に山田町の谷口商店に奉公、一年間勤めたあと船員などいろいろな職場で苦労したが、大正十年知人のすすめで、当時はぶりをきかせていた小樽無尽会社に入社。誠実一本ヤリで仕事をしてきたがとくい先で資金ぐりが悪く貸し金が取れなくなった場合など、寝ているふとんをはいでくるといった場面を、たまたま目にし、幼少のころ貧しく育った直治は、身につまされる思いが繰り返された。

 昭和十五年五月無尽会社にいやけをさし、こつこつためた二万五千円を基本に大東産業を設立、石炭、コークスの販売を始めた。最初は直治を入れて五人といったちっぽけな会社だったが、生来まじめ一方の直治はとくい先にたいし誠実をモットーに当たった。

 始めたころは苦労の連続だったが、誠実さがお客に通じ営業も軌道に乗り出しいまでは押しも押されぬ大東産業の社長として、北炭の販売を行っているほか、石油を手がけ、小樽を本社に東京、秋田、岩手、青森に営業所を持ち社員も百六十人を数え、小樽から商品を送り出し、小樽経済の一翼をになっている。

 根っからの小樽っ子のため、小樽をいちずに愛し、小樽PRのため北炭とかけあい『鰊御殿』移設のさい、北炭から大金を引き出し、小樽誘致に協力したほか、海洋少年団の制服や終戦後復活した野球の小樽協会にユニホームを寄贈するなど、公共団体にたいする寄付は惜しげもなく投げ出している。また小樽で博覧会を催した際、関係者の一人として中央の大手会社とかけ合い、ばく大な寄付を集め、絶対黒字にならないとされている博覧会を黒字にさせ、関係者から感謝された。

 直治は義理人情に厚く、友人など事業が思わしくなくなり泣きつかれると無造作に大金を出して、これに煮え湯を飲まされるが、決して泣きごとはいわない。社員にたいしても誠実さをもって失敗した場合にはおこらない主義だが、不誠実から失敗したときなど雷が一度に数回落ちたような直治になる。

 直治と兄弟付き合いをしている小樽富岡二ノ六六西田商店の西田直太郎社長は『たいへん世話好きで、よく人のめんどうをみています。だれとでも話を合わせてゆき感情をこわすということのないおだやかな人です。表面に出ないで陰で活躍するということで、小樽にとってはなくてはならない人です…』…と直治の人がらを語っている。

 

小樽経済百年の百人㉝

北海タイムス社編

昭和40年8月