古武士的な風格 田辺新一

2024年07月24日

公共事業の発展に功績

古武士的な風格があり、自らも武士道精神が好きな人である。まがったことが大きらいで、この人ほど小樽の公共事業の発展に尽くした功績の大きい人はいない。小樽千秋庵の○○の実父でいま九十一歳。ゆうゆう隠居の身を送っている。書をよくし、その達筆なことはあまりにも有名である。かつての市政に活躍した大元老で、その一生を舞台裏の主人公として大小樽建設のために働き抜いてきた。

 新一は明治七年十二月十四日山形県鶴岡で庄内藩の家老だった重剛の長男として生まれた。重剛は当時水力電気に手をつけ同三十二年これを成功して手織り事業が機械化される基をつくった。重剛も織り物業に手を出し、そのほかに倉庫や信用組合も経営してすでに鶴岡では大資産家だった。

 重剛は農家の冬の仕事として稲のワラを使ってナワ、ムシロ、ワラジなどをつくることを奨励してこの売り先を北海道に目を向けた。そのころ小樽は盛んな町だったので明治二十七年小樽に支店を置いたが、重剛はその時小樽の有力家だったのちの代議士寺田省帰に面識を求めて親しくなった。そして省帰に水力電気をやることを進めた。こうしてできたのが小樽電気合資会社だった。

 省帰は同社の経営を『だれにまかせよう』と考えて、新一に白羽の矢をたて、明治四十三年小樽にやってきた。新一はときに三十七歳。省帰に『しろうとなのだから思う存分やりたまえ』と励まされ、最初に手をつけたのは当時電力があまっていた王子の発電所から電力を引いてくることだった。実に四十二㍄の送電線で当時日本でも有数の事業として注目をあびたものだった。

 こうして小樽の電力事業は発展したが、新一は小樽に長居する意思はなくすぐにも郷里へ帰ろうと思ったが、すっかり省帰に見込まれて、それいらい省帰の女房役としてあらゆる事業に手をつけた。

 倶知安の奥に後志川を利用して発電所をつくったり、岩内、余市、寿都に電気を売ったりして商売を広げ、自分の経営した後志電気と小樽電気の合併で同社の専務になった。また樺太の真岡でも電気事業を始めた。大正八年市内に電車をとおそうと提唱して同志をつのったが、当時市制をぎゅうじっていた革新クラブの反対にあい実現しなかった。

 高島の地元に埋め立ての権利を持ち、これを埋め立てて造船会社を置くことに成功、小樽をして船成金の根きょ地としたのも新一の陰の力によるところが大きい。

 大正八年省帰が代議士選挙に打って出たが、この舞台裏を受け持ったことがきっかけで、あらゆる選挙の総参謀として顔を出し、新一の選挙好きは有名であった。そして自分でも市議を二期つとめ小樽実業界グループ茶話会のリーダー格として大いに名を挙げたものだった。

 一方事業の方も小樽の港湾荷役がじゅうぶんでないとハシケ会社を引き受けたり、小樽物産倉庫の経営に参画、一方函館千秋庵の支店を引き受け、現在の小樽千秋庵の基をつくった。このほか三十二の衛生組合を統合して連合会長にもなった。

 二代目板谷宮吉顧問格として、宮吉の市長当選にも力を尽くしたことはいまでも広く語り継がれている。

(敬称略)

小樽経済百年の百人㉜

北海タイムス社編

昭和40年8月8日