最初の公衆浴場 能島繁蔵

2024年06月24日

道路の建設にも尽力

 手宮の中央バスターミナル手前に通称‶能島通り〟という通りがある。明治十年ごろ繁蔵は手宮に農場を開くとともに錦町五二に新居を構えた。数年後札鉄道が敷かれ、手宮が起点になると一帯は日の出の勢いで発展した。貨物船もどしどし入港した。道内外から多くの商人が集まってきた。当然のように町は繁華街へと変えて行った。錦町一帯の地主だった繁蔵は借家を建てて貸した。その一角豊川町一から錦町五二、四一に抜ける通り、だれからともなく‶能島通り〟と呼ぶようになったのだという。

 付近は置き屋が並び、商店が立ち夜の町に一変した。三十年ごろには小樽一の繁華街として栄えた。現在は市道になっているところもあるが、手宮、錦、豊川町の道路のうち数本は繁蔵のつくったもので、この点だけをみても繁蔵が小樽に残した功績は大きい。

 繁蔵は石川県出身。他の人が一攫千金を夢みて渡道したように、繁蔵もまた広い北海道にあこがれて天治六年(※)妻を伴って函館に渡った。一時漁場で働いたが、間もなく小樽に移り雑貨商を開いた。明治四年ごろには入船町と堺町に二つの店を持っていたが、資金をためると和船を買って回船問屋を始め、下関や大阪までニシンを運んだ。

 小樽で最初に公衆浴場を建てたのは繁蔵だった。入船町の七、八丁目当たりにあった。手宮に農場を持ったのもそのころだが、借家を建て置き屋町にしたのは理由があった。当時の小樽には商人、船員らがわんさかと押しかけたが、夜求めるのは酒と女。船員らはこうした施設のない手宮を離れる者が続出。それでこの労働力確保の手段としたのだった。

 また水道の敷かれる以前の手宮は飲料水不足が深刻だった。繁蔵は裏山の湧水を竹筒で引き、付近の住民とわかち合った。手宮川の切り替えにも工事費をポンと寄贈した。性格は質実剛健、能島家を継いでいる能島正一は『人のめんどうをよくみた人で、道路や宅地をつくったと聞いています。』と語っている。

北海タイムス社編

昭和40年8月5日

(※天治六年→安政六年(1859年))