世界をまたに 亀田浦吉

2024年06月23日

自力本願で『木材王』に

 『人間千人の味方を得るより、確実に一人をつかみなさい。ほんとうによく自分を知ってくれる一人が一番大切なのです。この人が必ず、また幾人かをとらえてきます。一歩一歩、堅実に自力によって足場を固めていくのが、結局自分の大をなすゆえんです。私の唯一の資本となったのは、自力本願の努力だけです』これはあるとき浦吉が語った人生観だ。

 浦吉は明治四十年、小樽木材会社に入社したのが、木材界にはいった最初。三年後には釧路出張所に転じた。機敏な浦吉はここで木材について大いに学んだようだ。浦吉は開拓農家を歩いていたとき、畑のすみに投げてある木のコブに目をつけた。このころドイツのゲルトネル商会が小樽でこの木のコブを室内用材として買い付けを行なっていた。そうこうするうちに小樽木材が業績不振となり、浦吉は大正六年、退社すると小樽で『大元』という称号で店舗を構え、独立開業した。そして最初に取り扱ったのが、室内用材の木のコブで、まもなくゲルトネル商会の大手筋となり、大いにもうけた。

 その後、道内の木材業者がまだ樺太材を冒険視していたころ、浦吉は大胆にも樺太の柳を手がけ、さらに無尽蔵の針葉木エゾトドマツを移出した。さらに、満州に渡り、吉林省では鉄条網を囲み、数傭兵を置いて、造材するなど、すべて軍用材として本国に運んだ。

 昭和十三年には新宮商行と提携。西ボルネオのポンチカナーク市上流で南洋材の搬出にあたるなど、その活躍ぶりは、まさに世界をまたにかける木材王というにふさわしいものだった。

 浦吉は木材とともに鉱山にも興味を持っていたらしい。それは浦吉の土蔵にたくさんの鉱石を含有した岩石が保管してあった。

 『浦吉は大いに力を持ちながら決して外観を張らない質素な人だった。しかし、事業となれば一発にかける度胸を持ち、その量見は見習うべきものだった』と山中商会の和田定吉会長は、浦吉の功績をこう語る。

 また『大元』に勤めていた青木次郎も『がんこなおやじで、謹厳節約の人だったがこれぞと思った事業には金をつぎ込んだ』と述懐している。

 浦吉は小樽木材商会組合長として業界の立役者となり、十年ほどこの要職にあった。

(敬称略)

 

小樽経済百年の百人㉙

北海タイムス社編

 昭和40年8月3日