清水町のアイヌの歴史④

2024年04月08日

④アイヌの人達と開拓者の暮らし

 清水町の旭山地域には、明治30年頃に渡道し毛根に入植してから、洪水が酷くて大正6年に旭山に移住した家が何軒かあります。

 

 十勝の海岸の河口近くでも同様に洪水で畑を流されていた多くのアイヌの人達が、和人の鮭漁の奴隷労働に使われ、家族を養う為に密漁し、見つかれば惨い扱いを受けました。このことを十勝出身の作家上西晴治が小説「十勝平野」などの数多くの作品の中に書き残しています。

 

 明治31年、渋沢栄一の十勝開墾合資会社が人舞と熊牛を開拓する為に熊牛農場事務所を開いた同じ年に、旭川の塩野谷辰造による開拓団が上羽帯に入植し、翌年に乳牛を連れてきて牧場を作りました。これが「酪農のまち清水町」の先駆けで『熊牛地域開拓百年史』によると、開墾会社は明治37年に牧畜を始め、大正になって本格的に酪農を広め始めました。

 開墾会社と塩野谷の開拓団が入植した明治31年、9月に毛根では川が氾濫しました。この時、芽室太所轄巡査に急遽依頼されたサンクル他2名のアイヌは、丸太舟を使って人命救助に協力しました。

 毛根と人舞は20㌖ほどの距離で、移住後もアイヌの人達は山菜採りや猟の為に以前と同じ範囲を行動していた様です。和人の入植者達にアイヌの人達がこの地での暮らし方を教えて助けていた話は十勝にも多く残っています。

 熊牛の笹原千代美によると、義父の叔父が語っていた「この室の作り方はアイヌの人達が教えてくれた」という話が、伝説になっているそうです。その義父の叔父も熊牛出身で、叔父は開墾会社が牧畜を始めた明治37年頃の生まれであり、その場所はまさに熊牛の牛舎所在地でした。

 明治40年に十勝に鉄道が開通した翌年の明治41年8月に、栄一が開墾会社熊牛農場に滞在した際には、アイヌの人々も招きもてなしました。

(出田)

 

渋沢栄一翁の肖像