読んでいたら…

2024年04月03日

2024年(令和6年)2月8日発行の北海道建設新聞 十勝・根釧・北網 を読んでいたら

御影駅東側の5区画宅地分譲 清水町有地

 清水町は、JR御影駅東側の町有地5区画を宅地分譲する。1区画192万1000円—240万1000円でいずれも357平方メートル。用途は自らが居住することが条件。申し込みは1世帯1区画までとする。

 町のホームページからダウンロードできる申込書、納税証明書、入居者全員分の住民票を持参する。平日午前8時45分から午後5時半まで受け付ける。

 …。

『もう売れたかなア~…。』と思っているところへ

やってきました

2冊(右の冊子の写真~現在も使われている旧十勝開墾株式会社の畜舎 渋谷牧場)

ページをめくってみると

さねんごろ だったんだ

なかなか読み応えのある~中学生のためのふるさと歴史読本~

…。明治31年に設立された十勝開墾会社は困難を極め、設立時の賛同者が次々と脱退する中、資本金を減らして事業計画を縮小させながら、栄一をはじめ最後まで残った六人の出資者で粘り強く会社を維持しました。そして吉田農場長の本格的な農業改革のもと会社設立から17年目の大正4年にようやく五分の配当金を出すことができたのでした。

 栄一の秘書だった白石喜太郎は、著書『渋沢栄一翁』の中で次のように語っています。

 「当時、十勝には鉄道なく移民の募集に苦しみ、また収穫物は運搬の便なきため極端に低価であり、需要品はすこぶる高価であったから、社長はじめ当局の苦心は容易ならぬものがあった」「翁は、創始の当時より業務担当社員となり、明治42年に辞任するまで、この難事業の実際的指導者としてつとめた。ただ経営について努力するのみでなく、事業維持についての目標となった」「翁の与えた、道徳的影響によって、会社挫折の一歩手前で食い止めることができたのであった」(草野)

『渋沢栄一は清水町の開拓に大いに関わっていたんだ。』

北海道名づけの親の松浦武四郎は、この地が蝦夷と呼ばれた時代に、私人として3回、江戸幕府の役人として3回訪れています。

 来道時にはアイヌを案内役に雇い、身振り手振りで意思疎通を交わしてアイヌの言葉を覚えました。

…。(北村)

 

令和6年御影市街各戸図

JR御影駅の左下

5区画宅地分譲は、このあたりのようです

 

『時間を見つけ、じっくり、読んでみようと思っています。ありがとうございました。』