佐念頃村、鴨下金五郎についてわかる資料はないか?

2024年03月27日

初めてやってきました

北海道立図書館

北方資料室へ

前もってファクシミリを送っていましたので

用意してくれていました

ついに、たどり着きました

坂の街走馬灯⑨

越後の「米搗き」 奥田二郎

 幌都一流の料亭川甚で夏の一夜、月賦の白い服なんか着こんで数人と飲んでいると、先刻からしきりと我が方をうかがう熟年の芸者さんがいる。モテるはずはさらさらないが何となく気どってビールを流しこんでいると、ついに声がかかった。

「オクダさんでしょう。リッパになっちゃって」

 つらつらみると、これぞ小樽の向い家に芸妓見習に住みこんでいた、あれはなんといったか、とにかく現名あぐりさん。札幌芸妓の今や元老の一人。

 それにしてもリッパはよけいで、立派なのは九十㌔の体重だけで、当時北海タイムス会長竹田厳道さんの招待にそれとなくまぎれこんでの末席にすぎなく、自前で名流割烹にすわるなどは生れ変ってもできない相談だ。

 厳道さん「なんだ知ってんのか」

 あぐり女史「小樽時代、親戚みたいだったのよ」

 厳道さん「あんたのシンセキは多いからね」(笑)

 というわけで昔話になった。実になつかしい一夜であった。

 私の小中学の同級生の山内ジュンちゃんは早死したそうだが、あのころその向いの家のボンボンだった。向いの家のオヤ分は糸八、つまりジュンちゃんは糸八の孫である。あぐりさんは同居人。

 糸八、というと男名のおばアちゃんがどんな人か当時の青二才にわかるはずがない。後年もの書きになってから全道に鳴りひびいた小樽芸者の大元老、いや太棹、義太夫のおショさん、大先生であって明治の寿原重太郎や札幌の三国屋南部源蔵(南部忠平の先代)らの著名士が師事した人と知れた。

 なるほど芸妓という風貌ではない。デッカイ顔の禿げ上がったオッカナイおばアさんで、毎日弟子をどなってビンビンと三味をならしていたが、あるときジュンちゃんを泣かして家のかげに逃げこんだ悪童の私を、大先生みずから追ってきてアイツどこへ行った、こらジロ出て来いと、きたえたドラ声で怒鳴る。地獄の鬼を防ぐ思いであったのを忘れられない。

 大正七年に出た北海道百番付(富貴堂発行)という小冊子が手許にある。

 芸者の番付けの小樽の部では、さすが糸八が横綱を張っている。西方は梅吉、三役には小栄、貞奴、小国、小妻、年子などが並んでいるが今、知っている人がいるだろうか。生きていれば百何十歳だ。共に彼氏と墓石の下。

 芸者数の番付では函館、小樽、札幌の順で、いづれも四百二十人台。まだニシンが獲れていたから江差三十五人、余市二十五人。(いま札幌百人、小樽十何人)

 さてこの番付、ページをめくると人口の部で、小樽が十万六千人でトップ、函館が十万二千、札幌は後進でやっと八万六千、もって小樽の景気、絃歌さんざめく紅灯のにぎわいがしのばれるのだが、ダンナ衆の金満家番付では全道トップが五百万円以上の所得の小樽板谷宮吉初代と函館の相馬哲平で、これを勧進元にして二百万円以上に小樽の山本厚三、犬上慶五郎、藤山要吉、木村円吉、青木乙松、石橋彦三郎、百五十万以上に米谷秀司、酒井正七、金子元三郎、高橋直治と小樽勢が三役や前頭上位を占め、札幌の伊藤組、丸井今井、フルヤなどの初代が辛うじてその間隙にくいこんでいる格好である。

 剣道の部でも行事や勧進元、横綱の上位クラスに中西忠輝、飯田誠一、八代利英、横溝薫一、野田四郎と並んで後年の桜中、北照など剣道名門をうなづかせるものがある。野田はうちのとなりの玄武館の主だった。

 名所旧跡では小樽の古代文字がトップ、つづいて五百羅漢、赤岩、立岩、小樽の悪道が上位に入っている。どうです小樽の悪道というのは?いまの人たちは知らないかもしれないが小樽は坂の街であり泥んこの町であった。立岩はいまはない。

 料亭では小樽の海陽亭がトップを占めているが、珍名番付の横綱にサネンコロというのがあって、そこの警察署長が鴨下金五郎、女房がおすきというのは実在だったが筆者のとちりでサネンコロの人ではなかったかも知れないし第一、小樽とは関係がない。

 ところで何を書くつもりだったのか。そうだ板谷宮吉初代のすべり出しだった。最近板谷商船の品川清常務のご芳情をいただいているが、この人に会うと宮吉初代の辛苦が想像されてならない。

 新潟県刈羽郡宮川村というのは田中角栄出生の近くだ。となりの村々からアズキ大尽の高橋直治、伊藤組土建の初代、これも紅灯街を買占める大尽金子元三郎などが出ているが初代宮吉は宮川村に生まれている。現ハイタク王の柴野安三郎さんもすぐとなりの荒浜村の出で縁すじの柴野仁吉郎氏が宮吉初代の大番頭だった。初代の金子元三郎が道南福山に進出して漁場で成功していたので、同郷のよしみで宮吉少年は見習小僧として来道し、やがて明治八年に小樽へきて金子の紹介で港町の海産商工藤商店に住込んだ。これが一世を風靡した小樽海運界の横綱たる板谷商船のスタートになる。

 宮吉がのちに毎夜土蔵の二階でお札を並べて勘定をくりかえし、後ずさりをかさねているうちに入口の階段から落ちたという一口噺は偉大な金豪にあやかりたい庶民の創作であろう。

 

市立小樽図書館の司書の方が色々調べてくださった資料よりますと

「佐念頃」は、現在の「上川郡清水町御影」で、十勝地方北西部、十勝川と同支流芽室川に挟まれた地域です。地内物産御影石(花崗岩)にちなんで現在の御影(大正10~)となりました。

「佐念頃」とは、アイヌ語のサンエンコロ(出た鼻)、サネンコル「浜へ出ている・鼻」に当てたもので、十勝川の方向に張り出している山の先をこう称したと思われます。「語呂が悪い」との理由で、現在の地名に改称されたとあります。

「鴨下金五郎」は、参考資料に同姓同名の方がいらっしゃいますが佐念頃に配属された記録が見つからないので、同一人物かは不明ですが、以下、ご紹介します。

…。

A職員録、北海道人名事典第2版、旭川市史第2巻、釧路文学運動史 明治・大正篇、釧路新聞~佐念頃に赴任した事実は見当たりませんでした。

 

調理学校時代

料亭川甚の