日本の雑穀王 林松蔵
2024年02月15日
第一次大戦当時 ロンドン相場を動かす
第一次世界大戦のころ『ロンドンの豆相場を動かした男』といわれた雑穀輸出商。小樽港に初めて外国船を誘致したのも松蔵の力が大きかった。
松蔵は若くして来道、当時有幌町にあった中村支店の専属ブローカーとして泥ぐつで飛び歩いていたが、大正二年に独立。産地の委託問屋となり、次いで第一次世界大戦という世界経済の好況の波に乗り、またたく間に産をなした。いわば商港小樽が生んだ『雑穀王』だった。
大正二年から九年までは堺町(雑穀、でんぷん商)の黄金時代だった。『豆の選別女工が男より日当が多かった』という景気のよさ、第一次大戦前は青エン一俵(六十㌔入り)が五、六円だったのに、戦争突入とともに暴騰を続け、ついに一俵二十七、八円になったというから、雑穀輸出商の鼻息がいかにあらかったかがわかる。
ロンドンの豆相場は、当時神戸を通じて売り買いが行なわれたが、しだいに力をつけた小樽の業者が直取り引きをすることになった。ロンドンからの電文がはいっても強気な松蔵は『安値なら取り引きすることはない』とつっぱねるほどの力を持っていた。それだけに女工六百人も使い、六軒の工場で豆を選別したという。
ある年、本道の豆類が不作となり契約が不履行になったことがある。イギリスの輸出商は代表者を小樽に派遣、直談判にやってきたとき松蔵は『約束は必ず守る』と損を覚悟で、契約分の菜豆を送ることにした。その後ロンドンでは『林松蔵は日本男児だ』と大いに名声を博した。
松蔵の性格は冷静そのもので『ついぞ笑い顔をみせたことのない人』だった。仕事では従業員をきびしく使ったが、私生活についてはいっさいノーコメント。しかしわずかの幹部を除いては妻帯者を使用しないというしまり屋でもあった。
ともあれ、第一次大戦の終結で豆相場も下火となり、加えて昭和七年の大不況から雑穀商も野に下がるときがきたが、松蔵は倒産寸前の小樽信用組合を引き受け、これをみごとに再建、小樽信用金庫初代理事長として小樽中小企業の育成に努めた功績は大きい。
また松蔵は市議から道議と政治にも寄与したし、小樽商工会議所議員として大いに活動したが、昭和二十六年七十五歳で没した。
小樽経済百年の百人㉖
北海タイムス社編
昭和40年7月29日
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