終生‶三等〟を利用 初代 中村卯太郎
2024年02月04日
本道初の劇場(宝栄座)建設
『運、鈍(鈍重)、根(根…この三つのことばが好きな人だった。口ぐせのように‶頭がよくなくても、根気よくまじめにやれば天は助けてくれる〟といっていた。酒飲まず、タバコも吸わない当時の材木商としてはまったくの堅物でとおった。口数の少ない、地味な性格でもあった。二代目の中卯商会社長中村卯太郎=花園町西三ノ七=は人柄をこう語っている。
ある日、同僚と造材現場に出かけ、クマに追いかけられた。同僚は卯太郎をおいて逃げたが、これがわざわいして逆にクマにくい殺された。卯太郎は体重八十八㌔もあってふとっていたため、たまたまそこにあったトロッコで逃げて九死に一生を得た。このように卯太郎の人生はツキもよかった。そして誠心誠意仕事に打ち込んだ。これが成功の基となったが、その生涯を通じて終始汽車は三等キップを利用した人でもあった。
初代卯太郎は明治二年福岡県の農家で生まれた。十七歳のとき志をたてて単身渡道、同郷の知人をたよってそこへおちついた。最初ブラジル移民を思いたったが、北海道へ来てしまい、ずるずるおちついてしまった。当時岩見沢の奥にあった富士製紙(江別の北日本製紙の前身)の造材人夫として働いた。『十九歳のときチリメンのヘコオビを買い、これをしめたのが一番うれしかった…とオヤジはいっていた。ヘコオビは當時、親方の象徴といわれた。造材人夫をしながら独立の機会をうかがっていたわけです』二代目卯太郎は父の若かりしころを語っている。
造材の請け負い人として独立した卯太郎は事業の鬼といわれるほど仕事に打ち込んだ。大正二年北見の猿払で民有林七千㌶を買収。毎年一万…一万五千石の造搬を行い、生産財は東京、名古屋、大阪などを主体に積み出した。こうして事業を拡大、同十三年には主力を樺太に置き年産八十万石から百十二万石を生産して内地市場に移出、ついに樺太材の大手筋にのしあがった。
卯太郎は最初猿払に居をかまえたが、その後札幌に移り、樺太に主力を置くようになってから小樽を本拠とした。樺太材でおおいにもうけたが、これを卯太郎終生の大事業となった室蘭の中村埋め立て地につぎこんだ。埋め立て地は実に三十三万平方㍍(十万坪)にのぼり、昭和二年着工して同十三年に完成、個人の力でこうした埋め立てをなしたのは卯太郎の太っ腹によるものであった。当時の人は『あんなところにカネをかけるのはもったいない』と卯太郎の無茶なやり方を笑った。しかしこれを押して埋め立て、いま中村ふ頭として残されている。中村埋め立て地には恩顧を受けた人たちが記念の胸像を建立、遺徳をしのんだ。
卯太郎の事業は数限りない。小樽の勝納町にインチ材生産専門工場を設けたり、また猿払製材工場の設立、さらに大連酒精に投資、このほか特筆されることは本道最初の本格的な劇場として札幌新東宝の前身の宝栄座をつくった。当時東北以北随一だった。
昭和八年合資会社中卯商会を設立、十三年ごろから戦時中にかけて満州にも進出した。昭和八年、脳イツ血で倒れ、同十四年七十歳でその生涯を閉じたが、病に倒れるまで自ら赤い毛布のキャハンに身を固め山にはいった。なんでも率先して仕事をする人だった。
『家庭的にはまじめ一方の人だった。魚を買って家へ持っていくこともしばしば、どちらかというと家庭な人、晩年はこっとう趣味に生き、たくさんのこっとうを集めた。また小樽のお寺などにもよく寄付した』これが初代卯太郎だった。
(敬称略)
小樽経済百年の百人⑳
北海タイムス社編
昭和40年7月21日
そば会席 小笠原
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FAX:電話番号と同じ
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