マイ・ペースで 稲葉林之助

2024年02月01日

終生、手形を書かず

 『おのれにきびしいひとだっただけに妻にとっては厳夫であり、私たち子供にとっても文字どおり厳父でした』…長男稲葉欽一が述懐する林之助は、これほどさように、人にたいしても、自分にも厳しかった。

 頭の回転が早く学究ハダ。すばらしい話術の持ち主で、性格的にきちょうめん。福沢諭吉に心服、『福翁百話』など、諭吉の書籍は常に手元に置いて、範としていた。

 明治の末から大正、昭和にかけて、船具商、鉄製品を大規模に手がけた林之助は、明治四年、愛知県は常滑市の生まれ、帆前船船長の長男として生を受けた。父の希望どおり船乗りを決心、東京に出て商船学校に学んだが、生来からだがじょうぶなほうではなく、毎日のきつい実習にからだを病み二年で中退、父のあと継ぎを断念した。

 このあと横浜の船具商鈴木市三郎商店に入社、商いをみっちり学んだ。社命で本道を視察、小樽の活気を目にするや、永住を決意、市三郎からその力量を見込まれ、長女を妻に迎えて、明治二十六年ともに来樽、船具商を営んだのが稲葉林太郎商店のれい明である。

 またたく間に商域を広げ、故郷から親類、縁者、知人などを店員に迎え、協力を仰いで、店を盛り上げたがこの中にはいとこにあたる中央バス前社長杉江仙次郎などもいた。

 商いは手堅く、手形を書くことは死ぬまでしない人だった。第一次欧州大戦や日露戦争で樺太を得たあとも、現金取り引きばかり。当時、手形で商いをして鉄成金が続々と誕生したときも、常にマイ・ペースを保って、信念を貫き、製造元からますます信用を得たものだった。

 また魚市場集鱗社育ての親でもあり、魚のための冷蔵庫を作って集鱗冷蔵を経営したり、その手腕は小樽経済にあっても、高く評価されていた。

 一時は区会議員を務めたこともあるが、常に中立的な立場を取り『政治にたずさわると不純なものが介在する』として、それ以後は絶対に懇情を退け、関係しなくなった。しかし商工会議所常議員、所得税調査委員長など、政治とは関係のない役職には、力を入れ、積極的に活躍した。

 教育に対する関心は高く、学費に困っている東大生七人を、卒業するまでめんどう見てやったり、稲穂小の保護者会長を約十五年間、昭和二十年八月、なくなるまで続け、きびしい半面、やさしさを内に秘めた人だった。

(敬称略)

小樽経済百年の百人⑲

北海タイムス社編

昭和40年7月20日