一升に十四、五銭 稲積豊次郎

2024年01月29日

たしまえで米騒動防ぐ

 豊次郎は人の困っているのを黙って見ていられない性分で、こうした人たちをみると大金を惜しげもなく投げ出した。

 文久元年八月十五日富山県高岡市横田で稲積四郎兵衛の三男として生まれた。家は貧しかったが幼少のころから家業の米穀業を研究努力を重ねた。明治二十四年頃から米の販売先として北海道に見通しをつけ、この後富山と本道を商いのために往来するようになった。こうしているうち商業港として活気に満ちあふれている小樽に魅力を感じ、明治三十年小樽移住を決意、間もなく来樽小樽区稲穂郡十四番地(現在の産業会館跡)に居を構えた。

 これとともに米の販路などについて基盤を固め翌年本業の米穀業「稲積商店」を始め米穀の仲買人となった。初めは苦しい日々を送ったが、従来のねばり強さと誠実さから委託先の富山県の業者から米が大量に送られてきたさい、口銭しか取らず、残りの利益をそっくり委託先にかえしてしまったという正直者だった。この話が各方面に伝わり、北陸の業者のほとんどが稲次郎の元へ依頼してきた。このため稲次郎は薄利多売方式で米をどんどんさばきおもしろいほど大金をもつことができた。

 大金を手にした稲次郎は米穀仲買人だけでは物足らず、次々と事業を拡大、牧畜業、倉庫業など着々と手を伸ばしていった。この事業の中には銭函町(現在勤労者団地)の泥炭地約三百九十六万平方㍍(約百二十万坪)を開き、牧場に仕上げようと明治三十九年十万円を投入して開墾に務めたが作業が意外にはかどらず大損をしてしまったこともあった。

 しかし豊次郎は絶対の強みは誠実さで短期間で元の隆盛をきわめることができた。この間、豊次郎には次のようなエピソードもあった。大正五、六年にわたって凶作に見舞われ、米の値段が暴騰。内地で米騒動が起きた。このときふだん世話になっている市民に高い米を買わせてはすまない。困っている市民に、と自ら四千円を寄付、自分が率先して有力者に呼びかけ、十万円という大金を集め、小樽では一升につき十四、五銭を援助、米騒動を防ぐことができ、以来市民から感謝されてきた。

 また小樽高商建設のさい、同建設地に大量の土地を所有していたが、そのほとんどを寄付するという太っ腹の持ち主だった。

 豊次郎が市民や業者仲間から愛された原因としては、幼少のころ貧しく育ったため、貧しい人には親切にをモットーにし、政治にはいっさい足を入れず会議所議員を務めただけという庶民的な性格が起因していた。

 

小樽経済百年の百人⑱

北海タイムス

昭和40年7月18日

 

朝、聞きなれない音がするので外を見ると

大きな船が

ニシン漁の船もでていました

大きな船は勝納埠頭に停泊中でした。おそらく、アメリカから小麦粉を運んできたのでは、ないでしょうか