‶手宮鎮台の名声 二代目浜名甚五郎
2024年01月15日
(浜名運送部の本拠だったこの建物はまだそのおもかげを残している)
みごとな経営手腕
『侠客浜名甚五郎一代の侠名を小樽にうたわれる先代甚五郎氏は明治二十六年をもって白玉楼中の人となり、侠名なお万人の口にするところ。現代甚五郎氏先代の遺業を踏襲し少壮の身をもって、しかも先代の威名を失墜せしめずよく書きよく策し家産を増殖する』…これは明治四十二年山崎鉱蔵著の『小樽区外七郡案内』に書かれた二代目甚五郎の照会である。
甚五郎はハシケと汽船を持つ浜名運送部と海陸物産商の浜名甚五郎商店を経営したが、その経営手腕はみごとで、資産は年々膨張し、その名声と資産を人々は‶手宮鎮台〟といった。
明治二十一年には本道鉄道開通のとき石炭運送業を創立するなど、目先のよくきく経営者であった。
明治の後期には本道農産物種子の海外輸出を計画しこれが成功、北海特産として小樽を経由する輸出種子の四分の一は浜名甚五郎商店が一手に引き受けた。
甚五郎は厳格な人であったが、柔道家だったところから、知人の手をつかまえて『おれの手からはなれてみよ』などと茶目っ気をだしこともあった。
甚五郎についてのエピソードというものはないがただ昭和二年六月に浜名運送部の常用夫がかせぎ高の歩合一人一円ずつの増額を要求したのに端を発し、港湾労働争議にはいったことがある。これには小樽合同労組の応援などもあって請け合い制度の廃止を主張、全市の労働者が同情参加し二千人におよんだ。がんこな甚五郎は一歩もひかず労働組合とわたりあったが、商工会議所議員や新聞記者などの調停によって終結したという本道労働史にも残る大きなストの拠点になった。この事件は二代目甚五郎を記述するうえにはぶくことができない一頁だろう。(敬称略)
小樽経済百年の百人⑯
北海タイムス
昭和40年7月15日
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