苦学して独立 戸羽亨

2024年01月13日

率先して 近代的な手法

 亨は現北照高校で夜学しかなかった時代の第一回生。色内町に宏荘な店舗を設け小樽屈指の海陸物産商として有名であった。明治十年岩手県気仙沼小友村五ヵ村の戸長をしていた安五郎の二男として生まれた。しかし自らの道を切り開こうと同二十七年、同郷の先輩で当時小樽の海陸物産賞をしていた米谷秀司の店に勤めた。

 亨はなにごとによらず負けずぎらいで、たいへんな努力家だった。米谷の店員時代よくローソクの火で勉強した。北照高校の夜学にかよったのもこのときであった。こうして苦労した事はのちに独立して成功したが、晩年になっても若いときの苦労したことを忘れず、なにごとによらず倹約をむねとした。

 ひとり娘英子=稲穂町西四ノ二〇在住=は父の思い出を『あるとき女中がキャベツのシンをゴミ箱に投げたのを見つけて、ここが一番おいしいんだと拾ってきたことがあるんです。それでいて考え方は新しい人だった。店に十二、三人の店員がいたのですが、よくホテルから西洋料理を取り寄せて会食、意見をたたかわしていました。店員を大事にして、当時としては率先して近代的な商法を取り入れた。ですからいまでも当時の店員たちがよく家に見えます。…』と語っている。

 また、父の人がらをこうもいっている。『何事によらず落ち着いた人でコセコセするのが大きらい。汽車に乗るときなどはいつもギリギリ、おくれたこともしばしばありました。そうかといって旅行好きで、よく本州方面のおとくいさん回りをしていた。どちらかというと家にいるときは口数も少なくムスッとしていた。これは威厳を保つためだったのでしょう。その半面、外ではあいそがよかった。まあ商売熱心な人でしたから外では人づきあいもよかったわけです。ふだんはおとなしい人でした。酒が好きで、毎晩一、二本飲み、すぐきげんがよくなった。また追分を歌い尺八がすきだった。碁も客とよくしていた』

 亨は米谷に勤めること十年、模範店員として当時雇い人奨励会から表彰された勤勉の士だった。明治三十七年『一八』の屋号で独立したが、間もなく火災にあった。しかしこれにひるまず商売に身を打ち込み、ついに肥料魚油、飲料品の問屋として成功した。

 対支貿易に熱心な人で挑戦、台湾、南京などをよく視察、そして支那料理に使うナマコの干したものや、カイバシラを輸出したが、これが当たり大もうけをした。しかし晩年の昭和十年玉カスを大量に仕入れ倉庫にいれたまま、くさらかしてしまい大損したこともあった。まあもうけたり損したりの生活を続けたわけだった。

 信仰心が厚く、またひとり娘しかいなかったために親類筋の子弟のめんどうをよくみた。区会議員をしたが、政治は好きだった。公正会出身代議士の応援演説に出かけることもしばしばだった。昭和十五年十二月二十一日脳イッ血で倒れ六十四歳の生涯をとじた。

(敬称略)

小樽経済百年の百人⑮

北海タイムス編

旧 戸羽商店