ふ頭建設進める 寺田省帰
2023年02月03日
「北辰社」の主幹で来樽
一口にいって太っ腹な、いたって話のわかる人。死に金を出すことをなんとも思っていない。会社、公共事業など頼まれたものにはなんでも出した。こういった面はちょっと俗人の目には理解できぬほど。それほど省帰は大人物だった…当時の省帰を知る田名部新一=富岡一の一七在住=はこう語っている。
省帰は教育界から身を起し実業界にはいり、さらに政界に迎えられた元老だった。小樽に居住後バチェラー博士の洗礼を受けて、熱心なキリスト教信者となり、小樽聖公会を創設したが、その高潔な思想は実業界に異彩を放った。
書をよくし、晩年にいたるまで読書を欠かさず、勢力の絶倫な事と責任感の強いことは側近者のひとしく驚嘆するところだった。一歩一歩着実に歩み続けて功成り遂げた人で、これはその努力と人がらによるところが大きい。
茨城県の出身で旧家寺田伊衛門の長男として安政四年に生まれた。千葉県師範学校の第一期生で明治十年卒業。この後中等教員の免状を得、京都府立高女教諭になり、京都府属を兼ねて在職七年、この間ときの京都府知事北垣国道の知遇を得たが、これが省帰のその後の人生を大きく変えた。
省帰は当時考えるところあって退職を結審、北垣知事を訪れ、辞任のあいさつをしたあと、『北海道に移住して農業をするつもり』と決意を述べた。知事は激励して『実は自分も北海道が好きだ榎本武揚らと小樽に十万余坪の土地を共有しているが、これを管理してほしい』といい、省帰はこれを受けて実業界に転じた。ときに明治二十五年だった。
この土地は小樽発展のために開放するということで榎本、北垣らが共同出資、『北辰社』の名で経営していたが、省帰はここの主幹として小樽に来住したこうして土地整理の仕事に手を染め、工事は難事業だったが、よくこれを成し遂げ、海港小樽の将来を考えて商業地帯を区画、今日の銀座通りを中心とした稲穂町を完成した恩人であった。
北辰社の事業経営によって省帰はその非凡な識見才能が認められ、初代区議に選ばれ、いらい十八年間区議を続けた。この間区長代理やそのほかの公職も数限りなかった。
実業家としては小樽電機、旭川電気、北海水力などの重役となり、電気事業につくした功績は大きい。また小樽港百年の大計のためにふ頭の築設につとめ、さらには北門日報社を創立経営、多額の資材を投じた。このほか塩谷のゴスケ沢の未開地に落葉樹五十万本を植樹、一大山林を造成した。これは本道における貸下地内植林のトップを切ったものであった。晩年は東京で生活を送り、昭和十七年十二月八十六歳の天寿を全うした。
百年の百人⑤
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