実業界の巨人 金子元三郎

2023年01月20日

 本道実業界の巨人といわれた人。小樽で海陸、物産、肥料販売のかたわら海運業を経営した。また日本生命保険、帝国海上運送火災保険の代理店となり、さらに銀行業にも関係したほか農場を開くなど俗でいう多角経営の祖である。

 当時インテリで、風格のある人として区民から親しまれた。一見殿さま的な風采で威敬されていた。大正八年金子邸なる別宅を建てたが、当時小樽としては外壁をめぐらし、内地の城下町にみられる白亜館もたいな宏装な建て物として知られた。また明治二十年浄土宗直行寺を緑町三丁目に創建、特別檀家となったが、区民呼んで金子寺といった。

 元三郎は本道の開拓また小樽の開発につくした恩人といって過言ではない。明治二年四月新潟県寺泊町に生まれ、幼少のころ北海道福山の富豪金子家の養嗣子となって、その後養家とともに小樽に転住した。

 このあと東京に遊学、頭山満などの政界知名の士とまじわり、金玉均などもきわめてじっこんの仲だった。こうした元三郎の背景が政界、新聞界に足を踏み入れさせる基となった。元三郎のことで忘れられないのは小樽で最初の新聞『北門新報』を発刊したこと。当時自由民権派の論客だった中江兆民を招き主筆として明治に十四年四月二十一日その第一号を出した。そして開拓使当時の官僚政治が続く道政刷政の急先鋒となり道民の政治思想を喚起した。

 当時露国皇太子の暗殺未遂事件があったが、このとき元三郎は従来使っていた魯国の『魯』の字は魯鈍の『魯』であり、字義上おもしろくないというので、ロシアを露国と書き『露』の字を用いた最初の人として知られた。

 明治三十二年小樽に区政がしかれ、わずか三十歳で初代区長になり、今日の市政の基礎を築いた。さらに明治三十七年と大正四年、六年の衆議院選挙に小樽選出の代議士として国政に参与、加藤内閣のときには予算委員長として手腕を振るった。のち多額納税議員として貴族院に転じ数回にわたって議席を有した。

 元三郎にいろいろ非難はあったが、財界人としてまた政治家として小樽につくした功績は大きい。さらに献金など社会奉仕の功労も多くあった。このほか小樽高商の建設にも力をつくした。元三郎は元北海道長官だった園田安賢の女婿であったことも有名である。東京に移住し歿す。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人①

明治32年小樽が国際貿易港になった年

30歳の初代区長

大豪邸

金子元三郎氏本邸

大正3年発行 棟方虎夫『小樽』より

小樽の建築探訪 より