楽しく働く場を 寿原九郎

2022年12月20日

 事業繁栄の理念を貫く

 『事業を繫栄させていくには、使用人が楽しく働けるふんいきを作らなければならない…』と力説する九郎は、積極的に明るく楽しい職場とするため力を入れる。物静かで、かといって一本筋のとおった性格の九郎は明治三十四年三月二十三日石川県加賀市の郊外で林恒男の子として生を受けた。

 なに不自由なく勉学に励んでいたが、大正十年親戚筋に当たる寿原英太郎のたっての願いで、来樽英太郎の養子にはいった。来樽後小樽高商に進み、作家の伊藤整、なき作家小林多喜二などと席を同じうして文学論に花を咲かせたというだけに文学にもすぐれている。

 小樽高商卒業と同時に三井銀行本店に入社、九年間にわたって銀行経営について研究したが、英太郎が小樽無尽会社、寿原産業を経営していたところから、他人のメシもこのくらいでと昭和十年、小樽無尽会社と寿原産業の重役として迎えられた。

 青年実業家の九郎は昭和十四年大陸で一もうけしようと満州に渡り、繊維工場を設立してくつ下の製造、販売を始めた。初めは上昇気流に乗った勢いで繁栄の一途をたどったが第二次世界大戦のぼっ発とともに資材の統制で運営が困難になり、閉鎖するはめとなった。その後召集され、幸い外地にかり出されずに道内の根室、釧路の各部隊に配属され、危険な場面にそうぐうすることなく終戦を迎えることができた。

 終戦と同時に九郎は寿原産業へ復帰するとともに英太郎のあと取りとなり寿原産業の経営にたずさわった。当時終戦直後でもあり商品不足に悩まされ続けていたが、‶これはいかん〟ということから、神野商店、小杉産業の社長と話し合い、小樽の繊維問屋の復旧に連日努力し、中央とのかけあいにもたびたび上京した。そのかいあって現在の隆盛をきわめることとなった。

 その後九郎が最も力を入れた小樽無尽会社は昭和二十六年に北洋相互銀行となり、その社長に就任。全国相互銀行協会の会長におさまり、会員の中に内容のよくない二、三の銀行があったが、人情味の厚い九郎は見るにみかねて、救済に乗り出し、正常な状態になるまで、陰ひなたになって援助していった。

 現在の北洋相互銀行は札幌に本店を持ち道内に八十五の支店をもうらし、従業員も二千四百人の大企業へとのし上った。 

 また九郎は仕事の関係から海外に友人を多く持ち、友人の招待や私事旅行で海外旅行は六回を数えており、世界一周旅行二回、オーストラリア、ニュージーランド方面二回、アメリカ、インド各一回のほか、香港、東南アジア方面には数回旅行しており、このたびに各地の地名人とあい、小樽の㏚に努めている。

 この旅行好きからフランスにいったとき、自慢していたフランス語が現知でさっぱり通用せず、途方にくれていたところ、親子連れのフランス人に親切にされ、それいらいフランス人との付き合いができ、なにかと協力していた。これがフランス政府に認められ、三十三年から日本人としては珍しい、フランスの札幌領事代理に任命され、なにかと協力、小樽の九郎から北海道の九郎いや日本の九郎にまでのし上がり、小樽には絶対にかかせない九郎になった。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人㊽

 

寿原弥平司

寿原弥平次(長男)→寿原外吉(養子・小樽商工会議所会頭)

寿原猪之吉(娘婿)→寿原英太郎(長男・小樽市長)→寿原九郎(娘婿)

寿原重太郎(三男)→村山美喜生(長女の婿)

 

ですね。