小樽市市場株式会社 寿原食品を創設 寿原重太郎

2022年12月14日

初の賃借対照表使用

 『成功のこつは、一歩前進にあり』『お金をむだに費やすな』『なんでも素質を作っておけ、時を無為に過ごすな』重太郎は口癖のようにいっていた。寿原商店の経営にあたって、洋式のシステムを採用。和紙に線を引き、算用数字で記入した貸借対照表は、小樽最初のものとされている。

 重太郎は明治二年二月十五日富山県越中国西礪波郡福岡町で商業をしていた寿原弥平司の三男として生まれた。少年時代、父を失い兄弥平次の援助で、一ツ橋商高(現一橋大)を卒業、イタリア公使マルチノ氏らの推選でイタリア人が経営するデルオーロ商会に勤めた。しかし、明治十四年から十五年にかけて全国的に急激に不景気となり、さらに不作に見舞われたため、経済界は火の消えたような状態に陥った。

 このため寿原家もこの影響を受けて、京阪地方から仕入れた商品を秋田、酒田方面に送っていたのが、秋になっても回収できず、破産寸前まで追い込まれた。それで兄弥平次はこれからの商売は新天地の北海道しかないと、心に決め明治十六年重太郎だけ東京に残して来樽、有幌町十九番地で山形県の仲間とともに共同で陶器店を出し、屋号を『ミツボシ』といった。そして翌年、弥平次は独立、『一・イチボシ』を開いた。

 これが大いに当たった。そこで兄弥平次は商売の基礎を固めるため、明治二十七年、重太郎を横浜から呼び寄せた。こうして同二十八年から弥平次と義兄猪之吉、重太郎による共同経営が始まった。取り扱い商品も陶器類のほかに巻きたばこ、洋酒、かん詰め、石けん、化粧品と大幅に取り扱うようになり店は一段と繁栄の度をました。

 その後、明治四十年、重太郎は三十九歳のとき名実ともに独立『小樽市場株式会社』を設立した。同会社は現在の寿原食品株式会社と改称され、今日も発展の一途をたどっている。

 また重太郎はちじんのすすめで大正七年いっさいの公職から離れ小樽無尽会社の取締役になった。この無尽事業に足を踏み入れたのも知人から『無尽は年二割の配当があり、年報酬五千両とれるし、銀行より採算のとれる事業だ』ととかれたのがきっかけ。その後同会社のことわかってくるにしたがい四十数万不良資あることがわかった。

 無尽について深く研究しているうちに、日本の庶民金融機、貯蓄銀行、信用組合だけで預金の便宜はあるが金融の道についていない、その点無尽はその道が開かれている最も適切な事業であることを痛感『無尽経営は多分に公益性を有し、一種の慈善事業なり』との確信を持った。その後社長に就任、赤字経営と戦いながら、各官庁との折衝、大正十四年には黒字経営にもっていくようになった。

 重太郎は思いやりの深い性格の持ち主で、他人が困っていたときや公共事業にもおしげもなく大金を寄贈するなど大人ハダだった。こうして事業を通じて、小樽市発展の為一途に努力してきたが、昭和十六年病にかかり、北大病院に入院、翌十七年の一月二日市民に惜しまれながら七十五歳の生涯をとじた。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人⑫

 

旧小樽小樽無尽(株)本店(1935年(大正10年)竣工)

北洋銀行小樽支店

こちらの銀行にもお世話になっています

 

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『富山県のみなさ~ん 待っています。』