誠実と信念貫く 山本 勉
2022年12月10日
幅の広い識見の〝人格者〟
『事業でもなんでも、誠実と信念を貫き通すことが私の信条です』
-開口一番、さりげない口調で語りかけるが、それを裏付けする格好な話題がいまなお業界や社内で語り草になっている。
昭和三十五、六年といえば、山本勉率いる北海道通信電設株式会社は、上り坂にあった半面、苦獄に立たされた。そんな折も折り
『貴社営業政策はなっておらん。営業部長を配転してほしい。』という要求が、道電気通信局や幹部、工業協力会などから出された。
最も適任者と信じていた部下が中傷されていると判断、どういってきたところで、あくまで断固としてはね続け、不当な圧迫もずいぶんと受けたが、最終的には当時の営業政策が的を得、今日の一端を築いた。
勉は道産子。浜益で造材、運搬業を営んでいた三松の三男として生を受けた三松は政治、漁業に手を出してともに失敗、勉十四歳のとき病没。いらい孤独な少年時代を余儀なくされた。
おじ吉松に引き取られ岩見沢に移り、岩見沢庁立中学校夜間部に学んだ。活発で明朗、山登り、野球を好んだ。また友人たちと別れて家に帰ると、文学書をむさぼった。自ら詩や短歌をひねっては、よく記録にとどめることもした。詩集『落ち葉を拾いて』郷土誌『ふるさと』を編集、刊行しては故郷の同級生たちに配ったのもこのころ。やはり少年は寂しかった。
昭和十年、甲種合格で入隊、満期除隊後の十三年、吉松がトランスポート埋め立ての工事監督で小樽に転じていたため小樽入り、同郷人の竹内呉服店にわらじをぬいだ。これが小樽に住みつくきっかけとなり、二度の招集を終え、昭和二十一年北立産業を起こして、海産物を取り扱った。ときに三十一歳のこと。
五年後に解散、翌二十七年には単独で浜益と小樽の間に航路を定めて、生ニシンの積み取りを始めるなど、このときから経営者としての才腕をみせ始めてきた。
昭和三十年、当時の北斗電気工業社長山内正義が病死、千六百まんえんの借財を背負って再興を任せられた。『北海道通信電設株式会社』に改め、資本金百万円でスタートしたわけだが、社長以下たったの六人というちっぽけなもの。
それが十年後の今日、資本金一千万円、年間十数億円の工事を行ない、札幌、旭川、釧路、函館、室蘭、北見、帯広、東京営業所を含めると、全従業員は八百人にふくれ上がった。その工事は国内ばかりでなくインドネシアにまでおよんでいるのはおまりにも有名。
理路整然とした話術、円満な人柄が認められて日本電気電話工事協会理事、海洋少年団北海道連盟会小樽商工会議所運輸交通委員長、潮見台小pТA会長など公職だけでも二十余、直系の北海道商事、北海道不動、北海道火災などのほか、」十指にあまる事業所に関係、いまや小樽経済界若手のホープ。広い識見と清れん潔白な態度を常に保ち、海上保安庁では『北海道の元帥』と尊敬されている。
『今日あるはいい先輩、友人を持ったおかげ、これからも政治には絶対手を出さない。あくまで経済人の立場でできる社会奉仕をして行きたい…』-山本勉のさわやかなことばには、よどみがなかった。
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