海産卸しのはしり 山本久衛門
2022年12月09日
初のミガキ加工も
久衛門は商売一徹に打ち込んだがんこ者だった。当時のお金で十万、二十万円と大損をしても、〝それは見込み違いだったのだからしかたがない〟と決して苦にしなかった。そして〝商売をしていると損することもある。だから五銭のお金でも倹約しなければならぬ〟とほかの人が達者な足でバスを待っているときに〝わしはバスに乗らぬ。待っているくらいなら歩いていく〟といってバスなどに乗らなかった。こうしてどんな小さなことにも倹約した根っからの商人だった。
久衛門は越中高岡の横田町で生まれた。十五歳のとき父を失い、家業の海産物商売を継いだ。米、油の販売にも手を出したが、米相場の大暴落でたたきのめされ破産寸前に追い込まれた。そこで考えたのが樺太へ行ってもうけようということだった。ときに五十歳。しかし樺太はまったくの未開の地で思わしくなく、わずか三カ月で引き揚げ小樽は将来見込みのある町であることを知って小樽に落ちついた。
小樽ではいまの魚鱗社の場所にスジコ、サケ・マス販売の小さな店を出した。これが当たり郷里の家族を呼び寄せて店舗を塩谷街道に移し手広く商売を始めた。そのころは市場がなく海産卸し商のトップを切ったものだった。行商が毎日店の前に群れをなし、お金は一升マスで集めたものだ。その一升マスをまっすぐ当時の四十七銀行にもっていったが、マスが魚でくさくなっており、銀行ではくさくて金の勘定ができないと毎日洗ってからかぞえたほどだったという。
久衛門は小樽でミガキニシンの製造加工に初めて手をつけた人として知られている。小樽近海は大漁でたいへんなものだったが、シケで遠くまで運ぶことはなかなか困難だった。そこで考えついた水産加工加工だった。すでに漁師たちはこの加工を小規模でやっていたのだが、商人として手がけたのは久衛門が最初だった。
こうして近海の大漁の買い占めをして大いにもうけ、四十七銀行では四十七の山久か、山久の四十七かといわれたほど預金高は群を抜き、銀行内ではどんな融通もきいた。商売ではニシンカスを二万石も買い、四日市へ積み込んだが保険もかけないほど、こうと思ったらなにがなんでもやり遂げる意地っ張りな人だった。
積丹沖でとれたクジラを当時の金で二百円で買い、小樽新聞のそばの造船所にあげて市民に見せたのも久衛門だった。このクジラは油を海に捨て白肉だけを売って処理したものだった。
カムチャッカからサケ・マスを積んで道内で販売したほかニボシなどは小樽へはいったものの七割取り扱った。日魯漁業の小樽でのただ一軒の特約店で、これは道内でもわずか三軒しかなかった。
小樽が区から市になったとき、市議になり、仮議長をしたこともあるが、ともかく演説がへたで何回けい古してもうまくならない。それで〝わしは演説が性に合わない〟と一期でやめて商売一途に打ち込んだ。二代目久次郎=四十五歳で死亡=夫人のヨネ(七四)=色内町三ノ一〇=は『酒ものまない、タバコも少しすうていどでまじめな人でした。家庭内では優しい養父で家と商売のケジメをはっきりつけていた。晩年は私をたてて銀行などの取り引きもまかせられたが、商売にかけては目から鼻に抜けるほど利才のたけた人だった』と久衛門を語っている。
北海タイムス
小樽経済
百年の百人㉘
『山本久衛門→越中高岡出身(富山県)』
『山本久右衛門→陸奥田名部出身(青森県)』
我が家の正月用 身欠きにしん
そば会席 小笠原
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