うそのない商法 北 秀太郎

2022年10月10日

年商

謙虚な経営方針貫く

 秀太郎は『忍』『和』』『正直』この三つの言葉を一貫して守り抜いてきた。それだけに』『正直者がバカをみるようではいかん』と口ぐせのようにいい、この三つのことばを会社のモットーにしてきた。

 『私どもの会社は普通一般の会社と違ってお客様も株主でしょう。だからお互いが内輪みたいなもの。まあ集団同族会社なのです。皆さんのごひいきで商売しているわけですから‶うそのない商法〟ということを信条にしております』年商二十五億円、小樽、後志地区の米穀販売第一位にのしあがった小樽米穀は社長秀太郎のこうした謙虚な経営方針に大きくささえられている。

 秀太郎の一生についていた。幾度もの病い、災難に遭ったが切り抜けてきた。『私は小さいときから死ぬ思いの病気を幾度かしました。腸チフス、それに肺血症、胆石、高血圧と助からないと思ったことがしばしば。でもなんとか助かった。災難ということでも樽中ボート部が全国大会に優勝したが、このときOBとしてお祝いをかねボートを塩谷海岸から築港港外に遊んだ。その帰路に高波にのまれ遭難に遭った。これも幸い助かったわけで、ともかく何事も運がよかった。』こうそのついているわが人生を語っている。

 『なかなか豪快な竹を割ったようなひとです。何事にもサッパりしてハラができている』というのは樺商増山正一社長の秀太郎評。若いときはよくどなりました。どちらかといえば短腹な性格だが、次の日はケロッと忘れている。晩年はこうした性格もよく抑えて市議会では副議長にまで推された。

 明治三十七年十一月十五日、小樽で氷卸し販売をしていた源太郎の四男としてうぶ声を上げた。父源太郎は新潟の農家から十三歳のとき志を抱いて単身渡道、最初はマキ、スミの卸しをしていたが、次いで氷の卸し問屋を始めた。秀太郎は樽中第十八回生で、その後東京に学び、大正十五年に『これからの商売は生活と切り離すことができないものを…』と米の小売りをすることになった。当時父から米二百俵の援助をあおぎ、これを元手に商売をした。昭和三年にはこの父から借りた米も返すほどになんとかこぎつけた。

 その後第二次世界大戦にはいり米の統制で、小樽米穀商業協同組合ができ、この経理部長、次いで道食糧営団小樽支所長、戦後この組織は食糧配給公団になり、引き続き小樽支所長。二十六年小樽米穀商協同組合専務理事、三十一年に小樽米穀会社にかわり専務取締役、三十三年に同社長になった。

 『営団時代、米の出荷督励で早くから歩いたものでした。いろいろなことがありましたね。まあ、いまは米だけではな小麦粉、たんめん、砂糖、肥料、いの一番、灯油などを扱い、多角経営ということでやっております』秀太郎の持ち前のファイトで小樽米穀は道内でも有数の米穀会社にのしあがることであろう。

 

北海タイムス

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