「千歳鶴」の醸造 岡田市松

2022年10月24日

各方面の後進の指導

 酒豪といわれる人は数多いが、市松は百石のタンクにちょっと欠けるぐらい飲んだといわれる。百石というと一升ビンにしてざっと一万本、けたはずれの酒豪といえるだろう。年代ははっきりしないが、五十歳ぐらいのころの正月、年始の客があとを絶たず、元旦から四日の朝まで一睡もせず飲み続け、飲みつぶれるどころか家族の人たちがからだを心配してとめるのがやっとだったと語りつがれている。

 一抹の生まれは石川県能美郡御幸村字佐美、ここで糸の製造をしていた重兵衛の七人兄弟のちょうなんとしてうぶ声をあげた。重兵衛が事業に失敗して明治二十五年渡道小樽に住んだ。市松は当時十九歳。ここで父母は米と酒を販売する店を開いたが酒造りに興味を抱いた市松は野口吉次郎が営んでいた北の誉酒造の店員になり酒造りを学んだ。

 十年後独立して奥沢町で醸造を始め『花吹雪』という酒を売りだした。さらに古い人の記憶に残っているだろうか『巴里』『楽水』の銘柄をつくった。交通機関の発達、経済の伸びにつれて内地酒が出回るようになるといちやく、組織をかためて逆に本州方面に販路を広めようと小樽、札幌、余市などにあった十余の醸造業者を説きふせて昭和三年岡田合名会社を設立した。

 そして発売したのが『幌泉』、六年には札幌清酒会社と企業合同して日本清酒株式会社と名を改めた。銘酒『千歳鶴』が世にでたのもこのときだった。

 このころの市松はもう押しも押されもしない経済界の重鎮で、小樽酒造組合長として後進の指導に当たっていた。また防火組合連合会長、小学校保護者会長、商工会議所顧問と各方面で指導的な立場にあった。市の発展にも貢献した人で、市会議員三期をつとめ、その間に副議長についたこともある。  

 〝いや〟とはいえない人だったそうで、役職柄いろいろな会合にで、そのたびに店から酒を持ち出すが、一度も代金をもらったことがなかったという。孫に当たる岡田純一郎は現在日本清酒小樽支店につとめているが、『祖父は相当な酒の身だったようですが、母などの話では人のめんどうはよくみたそうですよ、それにしても百石の酒をのむなんてとてもまねができません。』と語っている。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人⑬

 

『私もがんばって飲もう!』

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