長の三冠王 河原 直孝
2022年07月08日
「学者的にして温厚篤実、俗気を超越したる態度と、さらに人の面倒をよく見、不振の業者のため意を用い、再建させた類は数多く、全市民から非常に敬愛を受けた」(小樽市史・第四巻)四代小樽市長河原直孝はこういう男。およそ豪商の名を冠するにはふさわしくない人物である。だが河原はその人柄のゆえにであったかも知れぬが戦争という最も苛烈な時代を背景として、軍のツルの一声がなければ満足な行政をすすめることもできない時代、昭和十三年四月から同二十年五月まで、七年の長きにわたって首長の座にあって腐心した。小樽市史を飾り地元経済に少なからず功のあった人に違いない。
河原を論ずるには寺田省帰を説かなくてはならぬ。教師あがりの事業の鬼寺田と河原の因縁は浅からぬものがあるからだ。寺田派明治十年、千葉県の師範学校を卒えてから千葉、山形県下で教鞭をとり、やがて中等教育の免許をとると日本初の公立女学いわれる京都府立第一高女の教諭となった。そして同時に京都府の嘱託も兼任した。このときの学務課長が河原の父一郎。一郎は後にこの高女の校長に転じたが、省帰は学務課長の頃から一郎と親交を結んでいた。
省帰が小樽で事業を始めるようになったのは、ときの京都府知事北垣国道の知遇を得ていたことから、北垣の北海道長官転出とともに行をともにしたからである。この省帰が小樽で電灯会社や銀行(後の北海道商工銀行)を創立したとき京都から一郎の倅直孝を招いて小樽銀行に世話したものである。
明治時代の電気企業を小樽にみると、電灯舎-電灯合資会社-電気株式会社と変遷しているが、北垣が京都府知事時代に、琵琶湖の水を京都にひき、日本水力発草分けとなった。その国書きの影響を受けて寺田もまた水力電気に力をそそいだ。その努力は明治四十四年十一月に見事に小樽で実っている。
こうして河原直孝も寺田の口ききで合資会社時代から支配人として働いていた。直孝は後に四代市長となって戦時中の苦心を背負ったが、その前の市長は名誉職の板谷宮吉である。二代市長木田川奎彦の任期が終わるころ、次の市長決定をめぐって政友会系の昭和会と革新クラブは激しく反目した。商都小樽の首長は断然地元人を選出すべしという昭和会と、官界のベテランを輸入すべきという革新クラブの主張は火花を散らして互いに譲らなかったのだ。だが寺田省帰の各柵が昭和会の猛者連中をよく動かし、遂に貴族院議員板谷かつぎだしに成功した。
「市長ハ有給吏員トス。但シ条令ヲ以テ名誉職トナスコトヲ得。名誉職市長ハ市公民中選挙権ヲ有スルモノニ限ル」の市制第七十三号案で、ここに小樽では空前絶後ともいうべき名誉市長したわけである。そのころ直孝は定山渓から札幌に温泉をひいて札幌市内温泉をつくって新名所にしようという途方もない名案?を持ちこんできた札幌温泉土地会社に出資した。これが不調に終って当時の金で二百万円という大きな赤字を会社がかぶることになったため、その責を負って辞任した。
だがもともと性温厚で友人も多かった彼は、すぐ小樽市街自動車株式会社の社長に迎えられている。
小樽市街バスは大正九年春に最上吉蔵、大野荒次郎ら八人が五万円の資本で、小樽市街自動車株式会社を設立。稲穂町七丁目付近で開業したのが始まり。料金片道十銭。俗に赤バスと呼ばれた。ところが同社名のバス会社がもう一つ営業を開始、青バスを走らせた。両社の競り合いが激しくなり、政治的な対立とも絡ため、ときの道議蓼原吉蔵が件にはいって合併させた。この会社が現中央バス会社の前身でもある。実直で学者肌経営者、企業マンというよりは教育者タイプだったのでその生真面目さが買われ「河原の裏判があるなら融通します」と銀行筋の受けもよかったので数多くの会社重役を兼任した。
それだけに、交際の範囲も広く当時はこれぞという宴会に河原の姿がないことなし、と取沙汰されたくらい顔は広かったし、誰からも敬愛され重宝がられたことも事実。このため随分と他人の世話を焼いては迷惑を蒙ったこともかなりある。だが決して愚痴をこぼしたことがない。人格者、教育者タイプといわれたのもこうした人柄によろうが、父が教育者だっただけにやはり水よりも濃い血を受けついだとみてよかろう。
直孝は大正十一年十月に行なわれた第一回市議選で二級選出、山本厚三や岡崎謙らと肩を並べ、次いで大正十五年、昭和五年、同九年と連続当選しているが、市議会の議長も勤めている。つまり彼は昭和十三年四月五日まで議長のポストにあり、その直後寺田省帰と因縁浅からぬとして板谷市長からバトンを受けたものだ。
河原市長誕生のころは「日支事変の熱度もさしたることがなく赫々たる皇軍の戦果大陸を覆っていた」ころだったので、市政もすこぶる容易で円滑にすすんだ。支那事変勃発後二年目になり、戦時体制が日ましに強化していたとはいえ。工業学校の設置案を考え、この道路建設には市内中学生の勤労奉仕によるところも大きかった。昭和十五年度には高島、朝里の両町村を合併して市勢を拡張されたが、この年日独伊三国同盟が締結されている。
ところが翌十六年には太平洋戦争に突入して、国の施策はすべて戦いに投入結集された。このためさしもの政争の町小樽都いわれ、天下に聞えた口角泡をとばす喧嘩議会も鳴りをひそめてしまった。お蔭で口やかましい政党人の圧力は、板谷前市長時代のころまでと違ってなくなったから、その意味では理事者にとって一番楽なときだったといえるかも知れない。
だが、企業統制による業者の転業や補導、主食欠乏による食糧の確保など、後にも先のも困苦耐乏の渦中を泳いだ市長は河原だけであろう。終戦の年の二十年ころには、混雑する列車にゆられて連日道庁に通い、こまかな打ちあわせを繰り返したが、その身は市長の座にあっても列車はいつも三等車。庶民のなかにトレード・マークの鬚のある温顔をまぎれこませていた。
このため精神的にも肉体的にも疲労困ぱいの極に達し、ついに病魔に冒されてしまった。目を悪くし階段を上るにも手すりにすがらねば足を運べぬほどになり、五月十日で助役の福岡幸吉に後をゆずった。
直孝が選良として議会に登壇したのが大正十一年、病を得て優待した年が昭和二十年。通算実に二十五年間、議会人、理事者と両側から小樽の市政に参与した稀少の人物であった。振り返ってみると大正十一年は小樽が市に昇格して初の市議が登場した年であり、昭和二十年は日本敗戦の歴史的暗黒の年であった。
この四分の一世紀はおたるの黄金時代と戦争の期で埋められている。ヒゲの川原直孝の晩年は時の流れを反映して苦渋に満ちた行政の府ですごさねばならなかったとはいえ、その円満な人柄のゆえに、よく市長としての責務に耐えて終戦直前まで市のために尽したといえよう。書をよくしいまでも、河原の揮毫は市内のここかしこ、学校などによく見られる。学者肌という形容がぴったりする人物像であった。鬼才寺田省帰に招かれて来樽したとはいえ、後に商工会議所会頭(昭和四年~八年)も勤めた。議長、会頭、市長の三ポストを一人の人間が全うしたという事例はこのオタルでも稀有なことである。
政治の場でも、経済人としても、また行政の長としてもよくその椅子を守れたことは、小手先の器用さではなく、誰からも安心して委せられる温厚な人柄が高く評価されたからであろう。
続・小樽豪商列伝(22)
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