白足袋の回漕店主 五代 西谷庄八

2022年02月02日

 小樽の倉庫業界は北海道同業者のなかで最もハバをきかせていた。なにせ正式の倉庫専業会社が本邦に初めて誕生発足したのがわが小樽である。いわば形を整えた倉庫企業の草分けの地なのだ。ハバをきかせていた…と敢えて過去形を用いたには理由がある。

 新時代の流通革命というすう勢に押し流され、且て全道倉庫面積の大半を占めるとして自他ともに大王者の威容を誇っていた小樽の同業界が歳月を重ねるに従って誰の目にも凋落のキザシ濃しと写るからである。

 高速道路の進展延長につれて倉庫施設はハイウェイの終起点地域か、インターチェンジなど分岐点の箇所近くに建設する以外はものの用にたたずと解釈される現今となった。

 もはや石造りに瓦屋根、赤レンガの屋上に鯱鉾や風神をとりつけた戸前の小さな倉庫は前時代的遺物と化し、時代劇映画で背景に利用されるくらいがせいぜいというものである。大型トラックやフォークリフトが自在に駆け廻る広く明るい屋内や、ニューマーが吸いあげるバラものを種類別にコムベヤ―で送りこむサイロ型が今日の倉庫だ。大量生産、大量輸送そして大量消費の二十一世紀では暗くカビ臭い倉庫のなかに何カ月も多量の物品を寝かせておくなどという、まだるっこいロスタイムは許されようもないのだ。

 

 本邦初の倉庫業、小樽倉庫株式会社が後志国高島郡南浜町三丁目甲三番地に誕生したのは明治二十八年九月十日で資本金は五万円。貨物蔵預り営業を免許するとときの農商務大臣子爵榎本武揚の印が捺された書類は、「農商務省指令商第一二九〇七号」とある。

 このとき会社創立の発起人となったものが西出孫左衛門、西園寺公成、稲積重顕、佐々木慎思郎、中西出ハツ、西谷庄八、武田信政、西出孫四郎らの八人である。この会社は一年もたつと山本久右衛門の所有になっている。即ち現小樽倉庫の山本信爾社長の祖父である。久右衛門と庄八は商いの上で親しくしていたが、座談の挙句に倉庫をやらんかい、やってみようか…で譲渡したらしいと現小樽倉庫の山下常務は語っている。

 西谷家は加賀にあるが回船買易業は大阪を本拠として江戸や松前との間を往復する北前船を動かして代々続いていた。小樽にも支店をだして物産部、海運部を設けたのは明治二十二年で五代庄八が自ら乗りこんで采配をふるった。

 同じ頃三代山本久右衛門も漁業と海運業を手がけて堅固な商権を拡げつつあったが、繁栄途上の黎明期にあった北海道を制するものは、七つの海につながる海路を自由に快走するものが最も有利であった。

 明治二十七、八年の日清役を契機としてわが国の海運は次第に沿岸近海から近海遠洋にと伸びてゆき、折からの航海奨励、造船奨励の二法が公布されて海運発展に一層の拍車をかける結果となった。三十三年には命令航路の改廃が行なわれて神戸小樽の東西廻り線、青森室蘭線が逓信省の命令航路となり、凾館根室、根室網走、根室シャナ、小樽稚内、稚内網走、凾館小樽の各路線が北海道庁の命令航路となったのである。

 船が物資を満載して往来する頃、小樽は西海岸と奥地を結ぶ一円を経済圏におさめたほか、本州と樺太の中継基地でもあったから臨港地帯には続々と倉庫が建ち始めたのである。

 明治二十四年の小樽市内の総戸数は六十三、三千七百六十四坪だった。日清役の後には全国的に企業熱が盛んになり倉庫業もぼつぼつ形を整え始めていた。小樽倉庫のほか角谷甚太郎、井尻静蔵、板谷宮吉、田中梅太郎、大家七平など回漕、海産商、陸産商らが倉庫業も兼ねたし、参拾年には上川倉庫合資会社も発足、倉庫の数は一挙に二倍になった。

 即ち石造り百一、土造十七、木造三十一の計百四十九棟を数え坪数も一万坪をこえた。同じ年に保税倉庫法が発布され翌三十三年には小樽倉庫組合が結成されている。

 

 おしゃれで締まりや、贅沢で倹約家といわれた五代西谷庄八は万延元年九月十日、加賀の橋立村で四代庄八の長男として生れた。庄八が生れる半年前の三月三日に大老井伊直弼が尊王攘夷派の水戸浪士に襲われて死んでいる。有名な桜田門外の変である。この年から反幕運動が激化しやがて御維新を迎えるわけだが、代々貿易業を継承してきた西谷家五代目の当主として成長した庄八は生れたときから風雲只ならぬ時代を背景として育った故か、封建時代の殿様風な一面と、なにかことを起すときには慎重に研究する几帳面なところを兼ね備えていた。

 「白足袋に扇子というスタイルで店の奥の大きな机の前に半畳に足りぬ畳敷きの椅子に正座して、出勤簿の印を捺す社員の挨拶をうける。だが七椅半すぎにたら‶おはよう〟とは言わなかった。退勤簿なるものがあって退店のときも捺すが早く店に出て遅く帰る店員を喜んだものだ。謡曲が趣味だったが、三平汁が好きで一年中三平汁を好み、昼寝は必ず二時間とった」

 高等小学校をでてすぐ西谷回漕店に勤めた小樽港運作業の乙坂巌専務は古い昔を回想してこう語っている。

 支店はやがて回漕店と改称され、日露役が大勝に終って南樺太がわが国のものとなるや、忽ち大泊を初めとする島内各地に支店出張所をだした。インテリを好み、社員に学校出を採用し月に一度は二階の仏間に全社員を集めて法話や精神訓話をぶった。六尺もある高い仏壇を前に長い間座っていることは苦痛だったが、西谷家の紋が烙かれたマンジュウを五つ貰えるのが楽しみだったと乙坂専務は笑っている。

 社員は朝晩の食事を店でふるまわれた。いわゆる給食をその頃から実施していたわけだ。

 小樽倉庫の創始者の一人ではあったが、庄八の仕事は回漕業が本命で遠洋、対樺太航路ばかりでなく、ドイツラインのゴールド号を雇船とする契約をすすめ、これが思わぬことでクレイムがついた。遂に争って外国領事裁判にまで持込み日本で初めて勝訴者となった。

 「成金ハナントイツテモ船成金ヲ以テ雄トスル(大正五年十一月二十六日凾館毎日新聞)

 と謳われた海運、回漕業者はその事業の規模が明治~大正の時代大きなものの一つであっただろうか、十年おきに戦争が勃って日本の国力が高まっていった時の勢いにのったことも幸いしていた。

 殊に第一次大戦には日本もお義理の参戦国となったが、欧州という遠い他国の戦争で漁夫の利を莫大に得た。船主たちは外国から稼いだ運賃、用船料は実に二十二億円、外国に売却した船舶代だけでも二億だったのである。

 しかも独断場の航路拡張は思いのまま、小樽港からの雑穀輸出は盛況を極めた。船会社といえば日本郵船さまさまの頃だったので本州の貿易商社は郵船支店のある小樽にそれぞれ支店や出張所を設けて本店と小樽の両方で郵船の船腹を獲得しようと図った。

 西谷に貨物を預けたら大安心だと荷主の絶対の信用を得た西谷海運会社は「恐らく回漕店では東洋一だろう』と取沙汰されるほど手広い企業に膨れあがり百人を数える社員を擁した。決して派手に振舞わず宴会などにも余り顔をださなかった庄八は戦争という大きな賭けに常勝し続ける日本帝国の隆盛を背景として事業に花を咲かせ結実させた。

 明治~大正時代の市内著名人といえば板谷宮吉、藤山要吉、井尻静蔵、麻里英三、木村円吉、布施市太郎、白鳥永作、西谷庄八といずれも海に関わりをもつ商いで成功し財を築いた群像が多い。この一事を以てしても小樽が港を栄養剤として成長し肥えていったことが明らかなわけだ。

 この頃の出世頭はみな江州、福山に加えて加州から越後にかけた北陸系、奥羽系出身者で漁業、解散、海運に従事した。加賀の橋立村に生れた西谷庄八も朔北の小樽港で着実に蓄財したが晩年は故郷(石川県片山津)に戻り昭和八年三月三日に永眠している。庄八の孫は現在七代庄八を名乗って片山津に居住しているというが、やはり西谷家は小樽の土壌に根を下さず故郷に返り咲いたわけである。

 西谷海運が傍系の北斗運送株式会社を大竹、竹内回漕店主らと出資しあって設立したのが、社長は敏腕の中木伊三郎でこの人の実弟中島四郎は後の小樽港運専務、伊三郎の倅が十勝の現拓殖鉄道社長である。子会社の北斗が西谷海運よりも大きくなったため、庄八が気分を害した時代もあったがこの西谷の店がひととき傾きかけたことがある。この社運を身を以って支えた功労者はいま山下新日本汽船札幌支店長の岩井氏の厳父だった。

 「明治時代から孜々営々と数代に亘り家業を引継いできた老舗(小樽港運二十年史)の一つだった西谷回漕店は昭和十六年九月の「港湾運送業等統制令」が施される前に、その名をかえ合併し統合し、体質改善をしていまは小樽港運作業株式会社という荷役専業の企業となった。

 西谷回漕店の黄金時代を偲ぶものの一つに昔、西谷牧場と呼んだ天狗山山麓の金毘羅がある。信心深い庄八が祀ったものであり、また西谷家が客を招いて歓待した‶千才温泉〟はいまの市役所車両工場付近にあって弦歌さんざめくにぎやかな別荘であったという。

~続・小樽豪商列伝(12)

月刊 おたる

昭和42年8月号~44年6月号連載

里舘 昇

小樽へ進出した北前船主たちの集合写真 1886年(明治19)12月9日、小樽で撮影。

西谷庄八(5代)26歳:前列中央

浜中八三郎:同右

赤松清七郎:同左

増田喜三郎:後列左

広海二三郎(5代):同中央

西出孫左衛門(11代):同右

 

北前船主の集合写真

西谷家調査(加賀市)で発見。

宝塚市在住の子孫が所蔵。

『高野先生、ありがとうございました。』

 

私も海へ

波の間を通って

鰊を待ちました

1時間ほど

ごめが飛んでいました

オオワシもいました

群来?

潮目ですね 群来ならもっと白濁するはずです