地酒の始祖 倉内 嘉蔵
2022年01月19日
沿岸貿易はクズ貿易…などと軽視されだしたのは戦後の話。世の中あげてアメリカ一辺倒に傾いて太平洋に草木がなびくようになった昨日今日のことだ。その太平洋に尻を向けて、波荒い日本海を望む小樽は時勢時節で、いささか中だるみの感がないでもない。
この頃でこそ新潟、富山などがしきりと対岸貿易に力を入れているが、小樽はその点ではずっと大先輩格。殊に明治中期から後期にかけて‶名物小樽港三人男〟といえば増毛の本間泰蔵に苫前の麻里英三、そして本篇の主人公倉内嘉蔵の養父仁吉が挙げられている。
小樽の地酒といえば銘酒‶北の誉〟と誰もが知るところだ。老舗野口商店がマルヨ石橋商店を卒業して独立した吉次郎に始まって昭和の今日にもゆるがぬ名門の座を占めている。
ところが明治三十六年、北海道十一州の清酒品評会で見事第一位の栄冠をかち得たのは、倉内嘉蔵の造った銘酒「竹の露」である。野口が酒造りを始めたのが明治三十四年のこと。ともに清酒醸造に励んだ岡田市松は翌三十五年に独立して花吹雪、稲川の名で酒を造りだしているが、既にこれより十二年前の明治二十三年に「竹の露」はまず小樽品評会で一頭になっている。当時嘉蔵は道内随一の酒造業者と謳われていたのである。
さてこの倉内嘉蔵、本名は平藤嘉蔵といい、元治元年四月十五日、新潟県佐渡国佐渡郡二見港で農業と海漕業を学んでいた嘉太郎の次男に生れた。
小さい頃は叔父倉内惣平に教育されたが、この叔父が実は酒造業だったので、後年嘉蔵が優秀な銘酒を小樽で造りだすようになった下地は幼少の頃からあったわけ。叔父の店の空気を吸い商道を叩きこまれる傍ら、水府の士佐々某なる人物に師事して学業も身につけた。
嘉蔵が小樽にやって来たのは二十六才のとき、明治二十二年の雪解け頃であった。叔父の転書をもって旅装を解いたのが同じ倉内の一族仁吉の家だった。仁吉の父忠左衛門は嘉永年間から安政の頃にかけて樺太交易の番勤役に任じており、樺太、ニコライスクなどを踏破して地形調査に当り、町人ながら名字帯刀を許されていた。蝦夷のエリート。その倅仁吉が荒物商を手広く学んで既に豪商の一人として数えられていた。
仁吉は荒物商のほかに呉服、雑貨、酒造、味噌醤油と小樽経済界の重鎮にふさわしい多角経営に忙殺されていたが、酒造の修練を重ねてひょっこり渡道してきた嘉蔵を早速養子として入籍した。
折から小樽港は海岸埋め立てと船入澗の工築が急ピッチですすめられており、北海道炭礦鉄道株式会社が幌内鉄道の起点手宮駅前の海岸を埋め立てしたいと請願書をだしたばかりの頃であった。次第に小樽の市街も町らしく整い始め、交通の便も計られる発展第一段階のときといってよかろう。
嘉蔵は小樽に着くと同郷人の松沢嘉平治が山の上町で酒造業を開いているときき、訪れて自分の抱負をあますところなく述べた。嘉平治も嘉蔵の専門的識見を高く評価し、たまたま事業拡張の計画立案中だったので、営業部門の責任者として迎えた。そして一年、嘉蔵のウン蓄を傾けた技量は松沢商店の家業を大きく飛躍させたのである。
さてこの頃の小樽酒造界について「小樽市史」(第二巻)にみると次のように記されている。
「明治十八年にはその醸造所数小樽一〇、高島三、醸造高にして小樽一九七七石、高島五二四石。ところが二十二年には小樽・高島両郡で兼業も合わせると醸造所三七、清酒七九六〇余石、濁酒四九〇石を示した。勢い価格の競争となり、粗製品の醸造となり、特に羽前大山出の焼印を押す模造品を出すものが現れ、小樽酒の声価を落すに至った。」
岩田酒造場、丸井正助、倉門仁吉(恐らく倉内仁吉の誤りではなかろうか=筆者註=)二十四年から白方酒類製造所、二十六年から本間酒造部の名が挙がっているが、この間小醸造家は経済の変動で浮沈激しく醸造高の増減もみられる何年かが続いている。
明治二十二年で酒の値段は、卸売一石について最上等八円、小売一〇円、並等は卸六円小売七円。二十七年頃の杜氏の(酒造稼人)の賃金が一ヵ月最上級で三円四五銭、中級二円八五銭いちばんやすいもので二円六五銭であった。
酒の品評会が当時行われたのも、恐らく粗製濫造の劣等品やイミテーションが現われたので、良品を求めるコンクールがこの頃の小樽酒造組合の提唱で実施されたものと解される。
こうして嘉蔵はやがて松沢嘉平治のもとから独立して一本となり、店も山之上町から中信香町に移して醤油造りも兼ねたのは明治二十六年とある。当時すでに毛並みのいい商店である養父仁吉の家業をすぐ受けつがず、他人の店で修練を重ね、独立独歩の自信がついてから正式に養父の事業を継ぐという遠廻りな策をとったのは何故か。
勤勉、真面目、信仰家、温和といいことずくめの性格が、初めから養子入りした身代の上でぬくぬくと楽をしようという魂胆など微塵も持ちあわせなかっただろうし、既に豪商の一人に出世している養父に己の実力の程を誇示する必要があったかも知れぬ。ともあれこうして嘉蔵は、名実ともに倉内家の三代目当主たるにふさわしい商人(あきんど)としての器量を備えていよいよ小樽の政治経済に雄飛することになる。
明治三十二年、小樽は函館、札幌と並んで区政をしき自治体となった。区の住民たる公権を有するものは、独立の帝国臣民の男子で、三年間区に住み区内で地租年額五十銭以上、また直接国税年額二円五十銭以上を収め、もしくは耕地、宅地三町歩以を所有するものとする…という厳めしい区政であった。
区役所は量徳町六〇番地(現住ノ江町一ノ二三)の量徳女子小学校屋内運動場に臨時仮役所として置かれた。初代区長はご存知金子元三郎。〇度三〇才。嘉蔵は六つ上の三十六才。早速区会議員選挙が行われて嘉蔵も三級区議として二七区議の一人になった。
その顔ぶれは当時の小樽財界を代表する錚々たるメンバーで寺田省帰、高橋直治、藤山要吉、ら一級区議、鈴木市次郎、中谷宇吉、山田吉兵衛、寿原重太郎ら二級区議、三級では高野源之助、板谷宮吉、麻里英三、本間賢次郎らの名前がみられる。一、二、三級のランクは納税額によって定められたものだ。
二十七名の区議の中から区長に金子が選ばれるまでにはかなりの曲折があった。実業協会の推す山田吉兵衛が断ったので高野が前道庁内務部長の坂本俊健に交渉、一方鈴木市次郎は金子元三郎を推した。堺町の小樽商業会議所での区長選衝は三回行われて金子元三郎が選ばれた。
さて名実ともに小樽経済のチャンピオンとなり、第一回区会議員にもなった嘉蔵はその後は順風満帆、一気に出世街道をひた走ることになる。商いにはヨミが深く、人の面倒をみることは大変なものだったから信望を集めて多くのファンが彼を推した。
初期小樽商業会議所議員、小樽七郡酒造組合長、小樽財政調査委員、小樽港湾改良委員など十指にあまる公職についている。いまならさしずめ市議で会議所議員、業界理事長のほかに港湾審議会委員といったところであろう。
「赤手、北海道ニ来タリ数年ニシテヨク抱負ヲ貫キ、堅志以ツテ今日ノ地位ヲ造リタルハ、後進者ノ亀鑑トシテ誠ニ好材タルヲ信ズルナリ」
明治末期に発刊された人物評誌に右のように激賞されて書かれた程の出世ぶりであった。
冒頭に述べた増毛の本間泰蔵や呉服商の亀雄紋造ら北海道開拓期の経済界先達として後史に残る人たちの多くが、若いころはみな倉内嘉蔵の家に寄食してその商道を叩きこまれたといわれる。
周囲の人誰彼となく手をさしのべ、決して無理を通す商売をしてはならぬと教え訓した彼は酒造、味噌醤油の製造に力をいれる一方、事業の進展をめざして回漕店を増毛の本間汽船部と企業合併して沿岸貿易にも精をだした。そうかと思うと農場や漁業の経営にも触手をのばし、養父仁吉の全盛時代に跡らぬ実績を築きあげていった。
一港湾都市の商人とはいいながらときの北海道庁長官中川建造や後の外務大臣有田八郎、農林大臣山本悌次郎らと深い親交のあったことも、やはり嘉蔵の人柄によるものといえよう。
小樽市創生期の政財界功労者として倉内家の名はいまも多くの人の回顧談によくでてくる。
~続・小樽豪商列伝(11)
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昭和42年8月号~44年6月号連載
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