樺太の材木王 増田 久五郎
2022年01月13日
稲垣市長、木村会議所会頭、吉村三馬ゴム社長ら一行九十余人が戦後初めて樺太の経済視察団としてソ連船で訪れたのは昨年の秋九月下旬だった。短期間ではあったがゆく人も送る人も非常な興奮と緊張感を示したものである。
それもその筈、樺太こそは小樽人にとって夢にも忘れることのできない且ての宝島だった。樺太こそは大正時代に小樽に無限の黄金をもたらした汲めどもつきぬ宝庫そのものであった。昭和四十三年の今日、もし万に一つでも樺太との交易が再開されたなら…と北方貿易にかそけき期待をかけた人は少なくあるまい。訪問視察団は洋服の襟に数えきれぬくらいのバッチをはりつけて帰ってきた。一行の誰もが「明るい見通し」と異口同音に言ったが、さてこの明るい見通し、今後どんな形で具体化するか。会う人ごとにバッチをつけてくれるソ連の子どもたちのように貿易の方もどしどし促進してくれると有難いのがだ…。
さてここに且ての宝島樺太はいうに及ばず、満州、中国にまで事業の手をひろげ「樺太の増田」と雷名を轟かせた木材王、増田久五郎の足跡を辿ってみることにする。
彼、久五郎は明治元年石川県は江沼郡大聖寺の百姓の長男として生れた。この大聖寺からは小樽高商時代に拷問死した小林多喜二と同期生だった寿原九郎や道南バスの徳中祐満がでている。
農家育ちではあったが久五郎は大人になると呉服反物を背負い歩く小商いで生計をたてた。明治二十五年、当時の誰もがそうであったように彼もまた未開の地北海道に憧れ、既に隆盛の途上で目ざましく拓けつつあった小樽に腰を落着けた。小樽港は特別輸出港に指定され、石炭が上海、香港、シンガポールなど東洋の諸港に送りこまれていた頃である。
久五郎夫婦が小樽に姿をみせたときの有金は全部で十五円。小樽米問屋元祖京坂与三太郎が明治十九年に来樽したときの全財産は十三円五十銭。久五郎の方が一円五十銭多かった。この金でまず腕に憶えの呉服行商を始めた。
明治二十五年十月といえば鉄道が室蘭、夕張線とひろがり、小樽商人はこの便利な岡蒸気をりようして石狩平野に商域を着々拡大し始めた年。しかも炭礦景気である。久五郎も肩がめりこむ程に反物を山と背負って夕張線でヤマを歩いたが、帰りには一反も残らぬ日が何度かあって忽ち金が溜まった。彼の睨んだ通り小樽はやはり商売のし甲斐がある港町であった。
温厚で太っ腹、頭もよかったが先見の明は抜群「堂々と商いをして人も儲けさせるかわり自分もまた儲ける」主義に徹して稼ぎに稼いだ。
二年後の明治二十七年八月からはロシヤ沿岸、サガレン、朝鮮などとの海上貿易も始まったが明治二十六年度に鉄道を利用して道内各地(といっても室蘭、夕張、砂川、峰延などだが)に送り出されたものの一、二を挙げると米が十一万三千七百石、味噌十八万八千八百貫、酒三千五百石、砂糖百四万五千六百斤とある。
反物行商でしこたま儲けた久五郎はこれを資本にいよいよ材木商を開始する。小樽にきて十年。明治三十五年である。日露の風雲急をつげる頃だった。
まず稚内、宗谷方面を駆け廻って専ら製剤に力をそそぎ着々と材木商としての地位を築いていったのである。時が移って大正三年北見幌内に国有、私有の山林一二〇〇町歩の払下げをうけると造材業にも手をのばした。そして北見から天塩一円にかけて材木の買付けと造材にわき目もふらず突進していったが同じ頃、北見猿払の民有林を買いこみ毎年二万五千石の造搬を行って着々と設けていた男がいた。後に室蘭港頭に中卯埠頭を建設した初代中村卯太郎だ。卯太郎が造材から出発したのに対して久五郎は製材からスタートしているところが面白い。
大正三年といえば小樽区会は渡辺区長のもとで港内の埋立てを運河式か、埠頭式かで大もめにもめ、政友、民政と二つに対立して「喧嘩議会」の名を昭和の今日までつけられる素地を作る幕あけの頃でもあった。
この年の六月第一次世界大戦が勃発。国内貨物船は殆んど軍用船として戦火の欧州を目ざした。このため国内物資の輸送が渋滞すること夥しい。業を煮やした久五郎は汽船「伏見丸」を当時の金の三十万円で買い、北見沿岸から東京、清水、大阪、名古屋と走らせて伐った材木を送りこんだものである。
なにせこの頃は船が少ないので木材の値段より運賃の方が遥かに高く、窮余の一策として自ら船主を兼ねたわけ。自力の海上輸送に自信をつけた彼は、豊富な山林に覆われているサガレンに着目した。大正十一年の頃である。
当時樺太航路は小樽を基点として西海岸五線、東海岸三線を数え、サガレン・ライン専門の北日本汽船株式会社が設立された頃でもあったし、既に板谷、藤山、山本、犬上らの海運業者が一斉に事業の花咲かせて日本海運界に躍りで、北方海上ラインに妍を競っていた。樺太との頻繁な往来は港小樽に史上最大のゴールデン時代をもたらしてもいた。日露戦争を勝利によってしめくくり、無限の宝庫をもつ樺太南半分が日本の掌中にころがりこみ、小樽は実にその宝庫への入口となっていたのである。
いま市内南浜町商船ビル内の商船三井小樽事務勤める野村老は当時入社したばかりの新入社員だったが、「本州から小樽に入った船が荷をおろすと、一丁樺太にいったろうか…で一航海してくると当時の金で軽く五千円は儲かりました。わしらペイペイの社員が上役に連れられて東雲町の料亭に毎晩通って芸者遊びにうつつをぬかしたもんです」と懐古している。
久五郎は樺太進出を決意すると、アメリカとノルウェーから「ハドソン丸」(三五〇〇㌧)『第一伏見丸(二二〇〇㌧)をさらに購入して専ら樺太材の搬出にあてたのである。かくて樺太だけで年一五〇万石も扱うようになった彼は、西海岸上名好に増田炭鉱を発掘して炭山を経営しだした。初めて渡道したとき呉服物を背負ってヤマを売り歩いた頃の石炭景気を彼は樺太に再現したかったのだろう。
炭鉱ばかりか豊原に製紙工場を、大泊には酸素工場を経営しこれでもあきたらず昭和に入って満鉄の大株主となる傍ら、満州木材を創立し、昭和十年ころには青島に本社をおいて北支に製材工場や建設会社をつくるなど大陸まで大きく羽ばたき、材木王増田の名を日本の内外に響かせたものである。
増田久五郎の家は山の上町にあった。現在の北海道通信電設の下‶日交ハイヤー〟の場所で同じ筋通りの下には料亭‶海陽亭〟がある。ハイカラな邸宅を構えて文字通り山の上の百万長者「増田さん」といわれ、付近住民が畏敬の眼でみたものである。
樺太開発に大きな貢献をし、併せて賞と小樽の繁栄に預かって大なる要因となった増田久五郎の足跡は偉大なものといえる。南樺太が日本領土として存在し国内経済に、特に本道経済界にどれだけ無限の恩恵を与えたかは、戦後この掌中の玉を喪失したために衰落した稚内、小樽、函館の三港をみれば明らかであろう。
それだけに道民の樺太に抱くノスタルジアは単なる感傷ではない。昨秋その懐かしい南樺太いまはサガレンとソ連名になった北の宝庫を経済視察ができると知った小樽経済人が異常なほどの関心を示した心情は十分に察しられるのである。
かつて父が祖父が稼ぎに稼いだ第二の故郷ともいうべき宗谷海峡の彼方の島に対する関心は、その島のお蔭で今日の財を築きあげた小樽人も少なくないだけに「夢よもう一度」の見てはならぬ夢をふと抱いたそしても無理からぬことではなかろうか。
北洋材が小樽にも入ってくるが、一方交通のような取引きのため時によっては価格面で必ずしも満足すべき交易とはいえぬことも〇〇。
いまもし増田久五郎が生存していたら樺太を失った小樽っ子をなんとみるだろう。外材用の貯木水面積が狭いといって嘆いている昭和の今日に久五郎が仮に健在なら「人を苦しめてまで金はほしいと思わぬ。露助にも儲けさせる代り、こっちも儲けさせて貰うわい」と自分で船をチャーターして、ナホトカにゆき、ハバロフスクにおしかけ、民間貿易の実をあげるかも知れぬ。
北洋材を買って加工し、再びソ連に逆輸出するような卓抜したアイデアは、もう不毛という言葉でしか表現できぬ時代なのだろうか。
続・小樽豪商列伝(10)
月刊 おたる
昭和42年8月号~44年6月号連載
里舘 昇
きた
きた~
大嵐でも
碇泊中
海へ
行きたかったのですが…
オオワシは狩にお出かけ中
そば会席 小笠原
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