運、鈍、根の人 中村卯太郎

2021年12月01日

 明治初期、〝維新のあぶれもの〟が日本の津々浦々にあふれ、武士は武士なり、町民は町民なりに先祖伝来の故郷をすて、殆んど着の身着のままで未地の国を目ざした。

 初めはブラジル移民を夢見た一人の若者が途中で北海道に渡ることに決意を変えた。熊笹の密林で一旗あげるべく……。

 明治十八年この青年は十七才で富士製紙工製の岩見沢造材飯場に入った。数年前一度整理した江別の北日本製紙の前身がこの富士製紙工場である。

 十代の造材人夫、中村卯太郎は九州福岡椎田町の農家の倅に生まれている。現株式会社中卯商会(小樽志色内町七ノ二六、三井ビル内にタイプ印刷されてある社業沿革の冒頭に「先代中村卯太九州大分県中津市より来道」とある。福岡の椎田町と大分の中津市は国鉄で駅一つの近距離にある国境の向こうとこっちである。

 中津市より来道とあるのはこの町は卯太郎が後年事業に成功してから中卯商会中津木工所を設けたためのようである。

 腕一本、脛一本で握り拳一つから一代にして財をなした立志伝中の人物もそのスタートは撨夫から叩きあげた。造材人夫になって二年目、縮緬の兵古帯を買ってしめたのが一番嬉しかったと後に語っているが、この頃、兵古帯をしめることのできたのは一人前の親方だけだった。つまり卯太郎は二十才になるやならずで人を統率するだけの人柄であったのかも知れない。

 生涯、酒も飲まず煙草も口にせず無論、道楽などに、うつつを抜かすこともなく、只ひたすら北海道の造材業に打ち込んだド根性は、いっそあきれる程にすさまじいものであったようである。もともとカミソリのような鋭い切れ味をみせる逸材ではないと自覚していたから、生涯好んで用いた言葉は「運、鈍、根」の三ウンである。「人間には持って生まれた運がある。その運をより良く切り拓くためには鈍重でいいから軽挙妄動に走らず、何事にも根性を持ってかかれ」というわけで一生の座右の銘とした。

 とにかく木材商人には似つかわしくない石部堅吉、当世風にいうと真面目人間のコチコチだった。誠心誠意仕事一途に励んだ。かなりの財産家になっても汽車はいつも三等車、相変らずアルコールはたしなまなかった。それでは本当に爪に火をともすようなケチな男だったろうか。そうではない。事業の鬼ではあったが投ずるところには惜しみなく金を投じて日本全国は言うに及ばず、満州、樺太、千島と海外にも事業をふやして、稼ぎに稼いだ。

 いま、室蘭港の中卯埠頭には彼の胸像が太平洋の強い風に毅然として胸を張っている。この胸像の除幕式は昭和三十年十月三日に行なわれた。卯太郎が病床に伏したのは昭和八年、永眠したのは同十四年である。本人が物故して丸十六年たってから彼の恩恵を受けた多くの有志が集まり、中村家の辞退を抑えて、この胸像を作製し、ゆかりの中卯埠頭に飾った。室蘭港にとってみれば中村卯太郎が個人の力で十万坪に及ぶ埠頭を実現したことが戦後いかに預かって大きいか十分に知〇していることなのである。

 

 大正二年北見国宗谷郡猿払村に民有林七千町歩を買収、毎年二万から二万五千石の造搬を行ない、その生産材を東京、名古屋、大阪方面に移出した。卯太郎が次第に上向きの経営に前進し始めたのはこの頃からであり彼は引続いて大正六年に富士製紙会社の原料資材に当てるため斜里の国有林、民有林から毎年十五万から二十万石の生産事業を行なって前後七年続けた。大正初期から末期といえば、日本にとっても一大難関を突破しなければならぬ非常のときでもあった。

 第一次世界大戦が勃発したのは大正三年六月だ。この年の十二月、国会は師団増設案でもみぬいた挙句に解散した。大戦の後には大きなパニックが日本全国を襲った。その頃でも卯太郎の事業は順調に進んでいた吋材工場を小樽の木材業者亀田浦吉と組んで始めたし、大正十二年には根拠地猿払村に製材工場を設置している。彼はこの頃から道内各地の民有林を次々と買収していった。製産材は相変らず関東、関西に移出して造材王の名をほしいままにしていった。

 運、鈍、根、ウンドンコンと仕事一途に努めた甲斐あって、事業は文字通りドンドン拡がっていった。昭和八年、卯太郎は既に病床に臥す身であったがその数年前から樺太に新事業を開くべきと着目、敷香、樫保、富内、珍内に出先機関を開設して木材をきりだし、中国の天津にまで輸出した。

 山を拓き、木を伐り、これを搬出して消費地に送りそのお蔭で莫大な財産を築いた卯太郎は、その故に異常なほど木を大切にした。当主二代目卯太郎が何年か前に、小樽に木魂神社際に集まった人々を前にして「私の父は木を大変愛し、大事に扱い、私たち子供らにも繰返し繰返し木を大切にしなければならぬと教え訓したものです。」と語って参会者に感銘を与えた。木材によって富を得た卯太郎がその富の源である木を大切にしたのは当たり前の話ではないかと言えばそれまでのこと。だが当節あらゆる業種にたずさわる人々のうちで、己れの仕事の素材になっているものを、丁重に扱何人いるだろうか。いるだろうか。振返って大いに反省する必要があるようだ。

 卯太郎は初め猿払村に居を構えていたが、やがて札幌の中島公園に近いところへ本宅を移した。この頃は専ら樺太の事業に主力をおき、その仕事上の関係から港おたるに事務本拠をおいた。樺太材で儲けた金は殆んど室蘭の埠頭建設につぎこんだ。

この頃の話だが某銀行に埠頭の価値がどの程度のものか査定してほしいと申しでたところ、相手は「いっそ何もないサラ地なら価値判断もつくが、あんな所に岸壁をつきだして、それが一体なんの役に立つか私どもには見当もつかない。そういうものをどう査定のしようもない」と暗にこの投資は全くムダなことと嘲笑せんばかりの態度をみせた。社員からこのことをきいた卯太郎は病床に起上って烈火の如く怒り「馬鹿な奴だ先の見通しもつかんで良く銀行屋が勤まるものだ」と吐き捨てるように言ったという。

 

 この頃、つまり日本に漸く軍国調の色彩がその濃度をこくしていた頃だが、卯太郎は病床にしたしむるようになり、その療養も兼ねて小樽は花園公園に近い所に居所を移していた。これまで卯太郎個人

 室蘭に埠頭を建設するかと思えば満州の大連酒精に投資し、札幌に現新東宝の前身宝栄座を作ったりもした。木材屋が劇場まで建てたのはいささか奇異に感じるが、これは卯太郎が札幌を去って小樽に居を移すに当りなにか地元の人の為に……と願って、依頼者の要望に応えたものがこの宝栄座であった由。和歌山県新宮熊野川上流にも、岐阜県高山にも、新潟県阿賀野川上流にも卯太郎所有の山林があった。「全部自分の意志で投資したり、事業を起こしたりというわけではなかったようです。先代卯太郎の名を伝え聞いて人を介して資金を仰ぎにきた人もかなりありました」卯太郎の女婿で、ともに仕事をわけあった現中卯商会の専務藤沢氏は昔を回想してそう語る。東北に金鉱をもったこともあり、戦後、全国に散在した事業場を一つ一つ整理していったが、一体どれだけ投資してどのくらい利潤があったのか、一地区の財産が幾らあるのか全く見当もつかぬ程厖大だったし、亦それだけに無駄な金もかなり費消したようである。

例えば前記の鉱山には昭和の初期で毎月六十万円を投じていたというのだから、満州、樺太、千島そして国内いたるところの事業場に投じた金と、吸上げた利益がどれ程ものか推して知るべしである。なかには日光の近くにもっていた杉山が模範植林地として指定されていたなどの実例もある。

 

 戦時中は室蘭の中卯埠頭が軍に接収され、搬出した木材をここで筏に組んで大陸の戦場に送りこんだこともあったが、戦後再び中卯商会の手元に戻ったいまここは石油基地として丸善、ゼネラル物産など大手石油業者のタンクが林立している。且って銀行すら査定のしようがなかったとサジを投げた十万坪の埠頭が、今日見事に金の卵を生むメン鳥に育ちあがった。昭和十四年卯太郎は七十才で物故したが、その前から室蘭の今日あることを予想していたかどうか。

少なくとも埠頭を建設することに意義があることを確信していたのだろう。

 当主卯太郎は幼名を史郎という。中村一家には先代からの忠義一途な大番頭、小番頭がいるから二代目卯太郎は安心していられると世間によく流布されている。だが事業に打ちこんでも政治には絶対手をださぬという信条は親ゆずりで、政治と名のつくものや、名誉職には頑なまでに背を向ける商人根性に徹しているのは、立派というのが当主への偽らぬ、蔭の声である。

 

 つい最近、中卯商会は花園の本宅兼事務所を手離して、オフィスを三井ビルに移し、当代卯太郎の本宅は札幌に転じ、ここを札幌出張所にも併用している。先代卯太郎が猿払から札幌そしてさらに小樽へと居を移したのに反して、当主は長年住みなれた小樽から札幌に戻っていった。大正の頃、先代が小樽は勝納木材を設立して吋材の生産に励んだ頃と違い、戦後十余年を経た小樽にはある種の沈滞ムードが漂っている。仕事をするのであれば矢張り札幌…その札幌に住みついてバリバリ仕事にうちこもうとの心意気が当主卯太郎にもフツフツと湧立っているのだろう。

 温厚で笑顔を忘れぬ当主が父卯太郎の「運、鈍、根」精神を継承して曲り角にきた本道木材業界のなかでどんな商才をみせるかは今後の課題だろう。

 

 他になんの趣味も道楽もなく只々仕事一筋に生きぬいた卯太郎のような人物が現代にもいることだろう。だが今日のようにレジャーとかТPOなどというリラックスムードをこよなく愛する俗人が多いなかでは恐らく変人扱いされる人物かも知れぬ。少し小金がたまればゴルフだ、ヨットだ…と遊びたがる。現代ではなく「遠くになりけり」明治から大正にかけて事業の腕を思いっきり振るうことのできた卯太郎は、それなりに幸福な男であったともいえる。

~続・小樽豪商列伝(2)

 里舘 昇