第17回 小樽商人の未来に

2020年12月19日

信香町29番地にあった山田活版印刷所=小樽市史から

♦時系列で組み替えて

 昨年四月号の第一回「小樽誕生」に始まった「会議所の百年・小樽商人の軌跡」は、今月25日の創立百年記念式を前に、今回の第17回「小樽商人の未来に」でピリオドを打つ。この連載を基本に、時系列的に組み替え『小樽商工会議所百年史』として出版する予定。

 当初の構成では一年間だったので前半を急ぎ、触れなかった4代目の藤山要吉を前回、初代会頭山田吉兵衛を改めて最終回に取り上げ、会議所誕生前後の周辺を振り返って、締めくくりにしたい。

 吉兵衛の生涯は、小樽の街の成長とともに歩んでいたことを再確認する。生れは松前藩の城下町福山。小樽に移住した松村家の三男が、漁業と回船業で財をなした小樽の名家山田兵蔵の養子になり、明治3年に15歳で家督を継ぎ、翌年善太郎の幼名を吉兵衛と改めている。

♦初期商人形成の典型

 ①福山から移住②小樽有力商人の養子に③若くして家督相続…藩政期の蝦夷商圏が開拓使時代になって小樽に移る過程をなぞる、初期小樽商人形成の典型的なタイプを示している。

 20歳で小樽郡教育所事務取扱、信香町ほか4町の総代理人、小樽相場会所取扱などを勤め、小樽郡の町村戸長、浦役人といった公職を立派に果たしてやめた時が28歳。その翌年に信香町29番地の自宅で活版印刷所を始めている。いくら若者が活躍した明治維新時とはいえ、ただ者ではない。

 養父兵蔵は、幕末期の穂足内村時代に御用所備蓄用にと五百俵の米を寄付したような名主。名主に年寄・頭取などの村役人が置かれ住民の意思が地域政治に反映する仕組みが『村並』。

 前幕領期に請負制度を廃止した道南旧6か場所のうち森・尾白内が和人人口の増加により『村』制になったのが安政五年。続く山城内・長万部が元治元年『村並』に、翌慶応元年に小樽内場所が村並とされ、これが「小樽誕生」ということになる。

♦市内唯一の人名地名

 地地域の経済活動に人と物の移動は不可欠で、それには道路が必要。だから兵蔵もまちづくりの早くから手を染めていた。慶応元年の大火で焼けた市街復興に際し、溝渠を掘って新地町を開いたという。吉兵衛も明治15年郡役所に出願し、水天宮山裾からオコバチ川まで私費で當時の中心地の整地と道路造りをやっている。

 水天宮下付近は今でも山田町、神社鳥居前に「山田町会水天クラブ」の看板を見た。19年5月新町名設定の時に山田町と命名。小樽市内唯一の人名地名として、現在でも健在だ。

 当時の小樽商人は山田吉兵衛と岡田八十次ぐらい。漁業の片手間の店舗無し出張販売で、江州・越後に大阪・東京あたりからの行商が入り、秋口に売れ残り商品を置いて帰り、翌年精算していた。

 着業前に資材一切の融通を受け、代わりに産物はせべて一括委託販売という仕込み制が漁場のしきたりだった。庶民金融は頼母子講か質屋ぐらい。兵蔵は安政五年に小樽の土蔵第一号を造り、吉兵衛は明治五年に鑑札を取って質屋販売をしている。

♦保安条令が埋立てに

 第一次土地ブームは明治20年12月の保安条令がキッカケ。明治政府は条約改正案に反対した民権派を皇居三里外へ三年間追放した。この時、吉田茂の父武内綱ら、帝都から追放された自由党員が避難して来て、小樽沿岸の埋め立てによる土地造成を始めた。インテリ自由党員だから、土木工事はお手の物。算盤も合って、三万一千坪十六万円の予定が三万八千坪を分譲。埋立て事業の有利性が証明されたので、以後埋立ての競願が続き、政争の火種になる。

 山田吉兵衛ら20人が発起人になって、商業会議所設立申請をしたのが28年9月。翌年に山田会頭体制がスタートした時の副会頭は渡辺兵四郎だった。秋田生まれ、山田兵蔵に連れられ15歳で小樽に来て、32歳で独立し、荒物・漁業。山田家総代理人を勤めて漁業組合頭取・水産組合長、区会議員から道会議員・衆議院議員・区長などを歴任する。いうなれば山田ファミリーの一人だろうか。

29年設立時の議員名簿では水産業、ほかに和洋太物扱いとなっている。高級な絹織物を呉服といい、綿や麻の織物が太物。早くから大衆路線の商売をしていたことになる。

♦新聞発行に乗り出す

 明治15年に自宅で活版印刷所を始めた吉兵衛は、道庁の活版印刷所の賃下を受け、札幌で週刊『北海新聞』を創刊する。改進党機関誌『郵便報知』の記者から道庁会計課に勤めていた阿部宇之八を主筆に迎える。

 宇之八は慶應義塾出身、経営まで一切を吉兵衛から任され、20年10月に北海道毎日新聞と改題して日刊に。小樽初の新聞は金子元三郎が自由民権派の中江兆民を主筆に据え、24年に色内町で発行した『北門新報』。34年に北海道毎日と北門新報が合同して『北海タイムス』が誕生する。タイムス社長の宇之八は大正2年に札幌区長になり、3男謙夫は北海タイムスと小樽新聞などが合同した北海道新聞の社長や戦後設立した北海道放送HBCの初代社長をした。

 歴史的に見れば、戦後華開いた北海道マスコミのはしりを吉兵衛が担った事になる。

♦北タイ・樽新と共に

 中江兆民が主筆になった北門新報は「拓殖事業を翼賛し兼ねて小樽港商業上の機関となり、報道を通じて世論を喚起する」目的で、2千部印刷した。25年の札幌大火で毎日新聞が発行不能になり、渡辺道長官の勧めもあって札幌に移る。留守で空いた小樽ではやはり日刊紙が欲しいとなって、『」北海民灯』が札幌から移る。

 山田吉兵衛、渡辺兵四郎、高橋直治らが百円ずつ出し合い、資金援助して『小樽新聞』と改題したのが27年11月。

 北海道毎日新聞記者だった上田重良が宇之八の出資分を返済して小樽新聞社長に。ほかに商況や物価報道を主体にした『小樽商業新報』もあったが、道内の新聞界は北タイ・樽新の2大紙相乗時代が戦中の統合まで続く。

 2紙共に吉兵衛が深く関係し、小樽商人が構成の中心に位置していた。商法の基礎に情報・通信の占める重要性を早くから悟っていた訳だ。

♦先輩たちに続け

 歴代会頭を軸に、小樽商人に焦点を当てながら会議所年史をたどって見た。確かに小樽の繁栄は日清・日露の両戦役から一次大戦など、市外からの刺激がうまく働いた結果だったからかもしれない。しかし、その時代にチャンスをいち早く捕え、勇敢にチャレンジした先輩たちが存在した。

 都市銀行が次々撤退し、斜陽都市のサンプルみたいに言われた昭和40年代の前半、日銀券の発行・還収額で、札幌・小樽・函館・釧路の4支店のうち、小樽だけが恒常的な還収超過を続けていた。42年実績で発行額347億円、還収額400億円。当時の日銀支店長は「つまり小樽商人がカネが入っているのに、投資していないんだ」と説明した。

 デフレ期に慎重になるのは当然だが、景気の上昇期にもチンマリと縮こまっていてはいけない。機を見るに敏でなくては…。

(終 り)

~会議所の百年・小樽商人の軌跡

 小樽商工会議所百年史執筆者

 本多 貢

今週よく見られた

光景

ひたひたと迫って来る

そして、雪

一昨日は

突然フェリーが現れました

今日は珍しく2艘が並んで碇泊中