第14回 運河とフェリー

2020年12月08日

木村3号倉庫だった北一硝子3号館

♦雪の駆逐艦

昭和40年から3期8年の第14代会頭をした木村円吉の自伝『雪の駆逐艦』が、娘の三宅喜久子の手で刊行されたのは死後間もない93年11月。タイトルは明大選手としての活躍が、北海タイムスに載った昭和7年のスキー耐久レース評の一節から採った。

 第一部は第一章「新日本海フェリー」に始まり、潮まつり、小樽運河、北一硝子と会頭時代の話題が続く。第二部が木村家地所内の円吉山でのスキー少年時代、「毎日スキーをやっているが勉強している姿を見たことがない、柄に合った明大を選べ」と父にいわれたという青春期…。豊かな小樽商人の家庭に育った恵まれた生活が語られる。

 戦後日本の‶財界の陰の実力者〟といわれた菅原通済の次男春男の伝手で、ヤミ将軍の異名を付けられる以前の田中角栄と秘書早坂茂三に会って日本海沿岸を結ぶフェリー就航にこぎ着けるまでの話、潮まつり開始に当たり玉光堂の八木社長の世話で三波春夫の音頭のレコードを吹き込んでもらうまでの苦心談などが語られ、当時を知る人には‶古き良き日〟の思い出になる。

♦6代目円吉

 昭和16年に5代目円吉が71歳で亡くなり、4男だった顕三が32歳で後を継いだ。「名前を変えるか迷ったが、帳簿でも商店の印でもそのまま使える便利さもあって」襲名した。不都合なのは、ときおり先代と間違えて百歳過ぎの老人と勘違いされることぐらいだという。板谷宮吉など、小樽商人には襲名のケースが目立つようだ。

 木村家が財を成した元は日本海を北上したニシンの群来である。青森県東津軽郡大泊村から渡道したのが祖父に当たる4代目。増毛で船大工をし、資金を貯めて和船を手に入れ北海道の日本海沿岸を見て回り、まだ和人が入っていない増毛村群別に目を付け ヤマシメの屋号でニシン建網を入れたのが、江戸から明治にかわるころ。場所請負人が漁場持に変わり、松前商人の独占体制が新政府の下で崩れ去る絶好な時期だった。

 4代目円吉は青森を春に立ち、秋にニシンを終えると青森に帰るという出稼ぎ体制に暮れた。留萌管内鬼鹿の開眼に豪壮な、国重要文化財指定の旧花田番屋を明治38年に建てた花田家の3男から木村家に婿入りした先代の5代目が、群別に定着した。

♦本道最大の網元

 明治27年の北海道実業家人名録では水産業になっているが、30年7月の税額による小樽財産家調べだと板谷宮吉に次ぎ、円吉が金銭貸付408740円、倉庫73986円、大正9年に道庁が50町歩以上の大地主を調査した時、小樽には山田吉兵衛ら6人いたうちの筆頭が木村円吉。

 本業の水産業では最終的に22ヶ統の網元になった。道内ニシン漁獲高50万石の1割、5万石を取る最大の網元であり、450人の漁夫を使っていたそうだ。水産業から倉庫専業に転じたのが6代目。相続したころは不在漁師になると漁場を取り上げられるので、ニシン時期の3、4月だけ浜益の番屋に暮らした。

 戦後の30年、円吉の網にだけニシンの大群が入り、小樽で入札したら500万円で売れたが、これが最後。ニシン粕を入れていた石造倉庫を元手に、海産物から倉庫、荒物も手掛け、営業倉庫者として堺町海岸に1号から9号倉庫まで次々に石造倉庫が立ち並ぶ。木村倉庫店主から木村倉庫株式会社社長に収まったのが昭和36年。

 石造倉庫が並ぶ小樽運河が観光の目玉になっている。大型観光バスが、数珠つなぎにならぶ北一硝子もまた運河観光のポイントだ。ヤングギャルが押し寄せる北一硝子の3号館は、木村倉庫の3号館でもあった。

 海岸線に面し、直接トロッコで荷物を倉庫に運び込んだというトロッコのレールが入り口付近に残る。一次大戦時の豆ブームの時は北浜地区にあった選別工場から輸出用の豆を運ぶためにも使われたと、レール跡は小樽の古き良き時代を物語っている。

♦ニシンで土地を買う

 懐手をして待っていればニシンが向こうからやって来た時代に、豪奢な建物に贅を尽くすようなニシン御殿のお大尽は、ニシンと共に姿を消した。アブク銭を消資財に使って見栄を張るようなことはせず、資本財として土地に投資した商人だけが、土地神話が続いた戦後日本に生き残った。

 5代目は岩見沢・美唄・由仁・長沼・浜益などに450町歩の農地を買い、毎年秋になると6千俵にも達する小作米が自前の倉庫に運び込まれた。農地解放を免れた山林と宅地が、戦後も木村倉庫の財産として残る。

 戦中戦後のひとつの体験談…

敗戦直前、地元農委が入植者を入れて開拓しようとした砂川にあった持山300町歩を自力で植林し、雑草を食べさせるため綿羊を入れたら見事な模範林になった。30年ごろ売ったら3千万円になったという。混乱期のなかでも、したたかに生きた小樽商人の面目躍如といったところだろう。

 色内町一丁目のメーン道路に堂々としたたたずまいを見せる日銀支店の土地も木村所有地で、天下の日銀も明治・大正・昭和と永い間借地で営業していた。もっとも戦後になっての会頭時代に、支店長から懇望されてとうとう手離したとか。

♦運河論争

 札樽バイパスを延長し、運河を埋立てた跡に道道臨港線を建設することが小樽市の都市計画で決定したのは昭和41年。小樽の歴史的遺産として運河を保存しようとの反対派市民グループと行政側との対立が永く続いた。

 この十年戦争といわれた小樽運河論争では終始埋立て派だった。道道臨港線建設促進期成会を引き継いだ会議所首脳陣が見直し表明をしたときでも、常議員会で再三反対派を批判。幅40メートルの半分を埋立て片側3車線の道路を造る計画が実施された。「わたしたち埋立て派は間仕込みなどでずいぶん叩かれたが、埋立て成功後は誰もそれに触れたがらない。」と、不本意な口振りだ。

 美しいせせらぎが流れ、大型バスが乗り付け遊歩道に観光客があふれている。倉敷市と肩を並べる全国的に有名な観光地になったといっていい…。「明治生まれの男っぽい男でした」前市長が語る今や一つの伝説的な人物になってしまっている。私の記憶に残る円吉さんは小柄な顔に一杯の汗を滲ませながら、新日本海フェリー初就航のテープを切っていた晴れがましい姿である。

♦日本海を走るフェリー

 小樽在住の菅原春男道ゴルフ連盟会長が道内から初めて日本ゴルフ協会常任理事に就任…というニュースが最近の新聞に顔写真入りで報じられた。運河地区再開発委員長としての活躍も知られ「ああ、あの人も健在か」の感に浸る。

 新潟航路に2万㌧余の「あざれあ」号も就航し、高さ11㍍長さ250㍍という日本最大の空中回廊が5階建てのターミナルとフェリーを結ぶ。さらに戦前の小樽とは縁の深かった樺太・大泊、今はロシア領サハリンのコルサコフと結ぶ日露定期フェリー開設が当面する大きな課題になっており、現会頭が団長になった道使節団も現地に出かけている。

~会議所の百年・小樽商人の軌跡

 小樽商工会議所百年史執筆者

 本多 貢