第10回 板谷王国
2020年12月01日
小学二年生用修身教科書の旅順港閉塞
♦旅順港閉塞作戦
「海軍中佐広瀬武夫は旅順の港口を塞ぐため、闇夜に汽船に乗って出かけました。敵の撃ち出す大砲の弾の中で勇ましく働いて引き上げようとしましたが…」と続くのが、日露戦争における旅順港閉塞作戦。昭和二年文部省発行尋常小学修身書の巻二に載った軍神広瀬中佐のお話だ。
小学二年生が対象だから全文片仮名。当時の日本少国民はこの教科書で学んだ。広瀬中佐が「杉野はいずこ」と探す小学唱歌は戦前派に懐かしい子供時代の思い出と直結する。
この事件は明治37年3月27日。帝政ロシアの極東艦隊を旅順港内に封じ込めるため、港口に船を沈め、航行妨害しようとした。現代から見れば、本気?と聞きたくなる戦法だが、この閉塞船が小樽・板谷合名が2年前英国から買ったばかりの新鋭汽船だった。
♦大火で無一文に
越後・刈羽郡宮川村の与板藩御用商人の4男に生まれた板谷宮吉が、同郷の海産商金子元右衛門を頼って、福山にきたのが14歳の明治3年。5年後、元右衛門の紹介状を持って小樽勝納に移る。
海産物の商い修行を続けた後2歳で當時の風習に添い、長兄の嗣子になり、同郷の女性と婚約。信香町に荒物雑貨店を開いて独立したのが26歳だった。
宮吉の試練は商売上でなく18年の入舟出火、20年永井町からと、重ねて襲われた大火だった。妻は病床に伏し、無一文になってしまった時、助けの手を差し延べてくれたのが同郷の高橋直治。
苦しいときに受けた恩は生涯忘れず、のちに‶小豆将軍〟の異名をとる直治とのコンビは、35年8月の初の国会議員選挙での直治当選に繁る。宮吉の商売は、21年の稲穂町の精米業から24年の醤油醸造と続き、その延長で26年に郷里新潟との直接取引を目的に百㌧の汽船を買ったのが、海運による開運のはじまり。
♦敏腕家の一位
28年の会議所設立では発起人の一人、翌年の倉庫業開始までは個人営業だったが、区会議員になった32年に板谷合名会社を設立する。理事長が長兄常太、宮吉は理事。
開戦の前年に買った持ち船が日清戦争の政府用船になり、その時もらった補償金で英国船を買い、またも日露戦争での軍用船になる。いずれも勝ち戦だったから膨大な政府補償金が入り、以後大発展する板谷海運の原資になった。日清・日露両戦役が企業発展のきっかけになるのは、小樽の板谷に限らず当時の日本産業資本の一般的な成功物語だった。
明治29年6月の小樽新聞が札幌・小樽の商業家人気投票の結果を発表、敏腕家との1位と信用度3位が板谷宮吉。独立して14年たった40歳の時だった。
明治日本の造船能力では優秀な外洋船の建造は無理だと知ると、当時世界一だった英国から次々と大型船を購入する。37年3隻、38年、43年各1隻、44年2隻と積極的な拡大策の末、44年の所有船は日本5位の6隻、一七五〇三総㌧に達していた。
♦先取りした早い動き
この年に後の帝国南進策を先取りし、南洋郵船組をつくってオランダ植民地の南洋に進出する。営業利益の分配を目的にした匿名組合組織という奇抜さだった。
小樽港から東回り門司まで日本海沿岸5港を結ぶ定期航路では、日本郵船と対等に切り結んで来たが、競争していては経営上好ましくないから、郵船と語らって航路廃止…など動きは早い。
家族企業からの脱却をねらい、株式会社「板谷商船」を設立したのが明治45年。資本金15万円は、板谷合名の合併ですぐに30万円になり、大正7年に百万円と、瞬く間に膨れ上がる。板谷商船所有船のピークは昭和14年の8隻、三八〇九七総㌧だった。
対中国方面では、日露戦争後日本領になったばかりの大連に合資会社板谷商行を設立する。大正2年英国船を買って黒姫丸と命名、13年に大連を中心にした遼東半島周辺の海域を担当する黒姫汽船合資(資本金5万円)に成長する。
一方、ロシア関係では、大正3年に資本金50万円の樺太金融会社をつくり、半年後に樺太銀行と改称。資本金二百万円と急成長する。
近代合理主義に徹しているように見えても、商船本店を故郷新潟の宮川に置き小樽は支店と、ふるさと志向はかなり濃厚だ。
♦司馬遷なら
死後3年たった昭和2年、東雲町の本邸庭に初代宮吉の銅像が完成。その脇に立つ、明治の文豪徳富蘇峰撰文の碑文にいわく…モシ司馬遷ヲシテ明治大正ノ史ヲ編セシメバ、貨殖傳中ニ加フルモ未タ知ル可カラス。
つまり、中国の史書『史記』の編者、司馬遷がもし日本の明治大正史を書いたら、必ずや貨殖伝中の人物に宮吉を取り上げるだろうと褒め上げている。
碑文についでに言えば、国道5号線沿い余市寄りの長橋中の校庭に、創立40周年を記念した二代目宮吉の胸像が立ち、その横に昭和40年10月の日付の碑文がある。
「大正14年当時は北海道唯一の市立中学校であり、敷地一万坪有余と当時の金額25万円と言う膨大なる資財を御寄贈されたものであります」と記す。
♦小樽学園都市のきっかけ
四千坪余の屋外運動場や短水路公認プールなど全道的なモデルスクールだった。学校専用の水道用貯水池まであり、海外留学し当時の教育先端理論だったダルトンプランの権威者だった初代校長、少数精鋭の進歩的な英数化教育などなど。
小樽作興は教育からと市長・教育長らに共鳴し、始めは病院を寄付するつもりだったのを市立中学に変更したという。
「翁は実業界の名士であるばかりでなく、教育に対しても遠大なる思慮と計画をもたれていたその卓越した識見には、まことに頭の下がる者があります」と、碑文に付け加える。
子は自分と同じ運があると限らないから、親の仕事と財産を守るために学問が必要だと、初代宮吉は長男を早くから東京に出し早大商科を卒業させた。父を継いだばかりの二代目は、自ら学んだ早稲田流の中・高・大一貫の学園制を目指し、理想的な中学設立を手掛けた、との見方もできる。既に開校していた商大の前身、小樽高商と結ぶ体制ができたら、商都小樽はこの時に早くも一大学園都市にねっていたかもしれない。
♦二代目の活躍
大正末に二代目を継いで、商船社長・樺太銀行頭取から北門貯蓄銀行頭取、北海水力電気取締役、横浜生命保険社長のほか、貴族院の多額納税議員を3期勤める。昭和10年に会長になった十合呉服店は、戦後関西系百貨店として札幌駅前にも進出した‶そごう〟デパートの前身。戦後の29年から33年まで十合社長をしている。東京郊外の京成電気軌道取締役から五州汽船、黒姫汽船、羽田精機、平和生命保険といった会社にも関係し、生田原の北王鉱山などの金鉱にも手を染める。
…戦前は日本十大船会社のひとつにランクされた。運賃収入で土地、山林を買い、豊かな財力が‶板谷王国〟を築いた。戦争のため大半を失った板谷商船の歴史は、そのまま商港・小樽の盛衰史でもある…と、昭和45年の毎日新聞にある。
~会議所の百年・小樽商人の軌跡
小樽商工会議所百年史執筆者
本多 貢
今朝の小樽港
やってきました
夜
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