第5回 故郷の錦
2021年04月06日
♦もう一人の小樽商人
前回は空知管内沼田町にその名を遺した小樽の精米業者、沼田喜一郎だった。沼田町では町開祖として下にも置かないもてなしを受けているのに、小樽ではそれほどでない。今回は対象的な野口一族の祖、吉次郎という‶もう一人の小樽商人〟を紹介してみよう。
秀映社の野口信夫さんから借りた『店祖野口吉次郎の生涯』(平成2年末刊)をじっくりと読んでいるうちに、小樽移住事情などは共通したものがありそう、と思うに至った。以下は関正燈著、野口礼二発行の同書をもとにした一人の小樽商人像。
♦初奉公先で決まる
安政三年(一八五六)加賀国河北三日市村(現在は金沢市三日市町)の農家西川善兵衛の四男に生まれる。当時の北陸地方では貧乏人の子沢山の場合、養子に出されるのが普通だった。とはいえ、四回も貰われてまた戻るのは珍しかったという。
15歳で加賀の豪商銭屋五兵衛ら日田前船の根拠地だった石川郡大野港の醤油屋に奉公する。北海道への縁と後の醤油醸造が初めての奉公先で決まってしまう。
六年間の奉公の後、隣村の醤油屋の養子になるが、すぐ飛び出す。明治14年、26歳で金沢に醤油小売店を構え、再婚同士の結婚。そして死に水を採ってくれるなら、という元金沢藩士出身の野口つるの養子になる。こうして百円あれば庭付の家が買えた時代の五百円を手に入れた吉次郎は、蔵を立て醤油を仕込んで一儲けを図るが、失敗。養家の財産を使い果たした上、借金だけが残った。
図に乗った若気の至り、とばかりはいえまい。松方緊縮財政のあおりを食った。金沢では坪二円の土地が17銭に落ち込んだほどの物価下落で、仕込んだ醬油が原価でも売れず大損。時代を見る目と自分の力以上のことは絶対やらないといった経営哲学はこの時の辛い体験の結果からだったか。
「これといった目安も立たないので、百姓に戻ろうか」と生家の兄に相談したら、「耕す土地も無いくせに。松前へでも行って一働きしたら」といわれる。即答も出来ず、黙って帰り暫くして「あれからなんとか商売をとやってみたが、だれも聞いてくれない。作男も家族持ちでは駄目だし、松前行を決めた。身の立ち次第、家族を呼ぶからそれまで預かってほしい」。養母は生家。妻と長男と実家に。長女を養子に出し、単身伏木港向けて出発する。
宿で風待ち中、義兄が来て押し問答の末、妻と長男を置いて、実家に帰り、急死するという悲劇が起こる。「今となればどちらでも良いことだが、かまどを覆したときはよく起きそうなこと」との記述がある。
♦三年無給
親類から総スカンを食ってやってきた小樽は、明治19年七月、住吉神社例祭の翌日だった。吉次郎31歳。船中で会った利尻の漁場親方に紹介された人に頼んで、ようやく古着の行商を始める。親子三人六畳一間の長屋、戸がないので拾ってきた莚を入り口に垂らしただけで冬越しに入る。
冬仕事は石炭人夫だけ。はしけから石炭を本船に担ぎ揚げる。浜で一番危険な重労働だった。体力的にも先が見えていた時、醤油醸造に気を動かしていた色内町の呉服商石橋彦三郎に出会う。≪人との出会いが財産≫という言い方がピッタリ。
新事業への資本投下は三年経たないと金にならないから、給金の出どころがないと、初めに念を押される。「親子三人食べさせて頂ければ結構です」と答え、足掛け四年、丸三年の無給生活を辛抱した揚句、「醬油事は一切任す。百円以上の支出だけは相談してくれ」と主人から申し渡される。始めの約束通りに過ぎない、との考え方もあるが、現代の感覚からすれば不合理極まりない酷い話だが、当時としては普通だったそうだ。
♦江州商人根性を学ぶ
石橋から江州商人の合理精神を学ぶ事によって、以後の小樽商人吉次郎が生まれる.仕込み生活から独り立ちして店を構えたのが明治23年。独立から自らの酒造開始までの十年が正念場になった。
主人の石橋彦三郎は典型的な江州商人だった。14歳の時、同じ彦根出身の大阪の米穀商に奉公し、米の買い付けに出かけた秋田で安い公債を買い集めている。酒田で年二分の金利が秋田で四分五厘もしたため、公債を抱えていた士族が現金化を急いだ結果、大阪で57~58円した額面50円の公債が秋田では32~33円で買えた。公債を詰め込んだ行李を背負って北前船で大阪に戻ったのが19歳。
商売の中心地大阪でなく、22歳の彦三郎がやって来た明治11年の小樽は、千戸ほどの人家で鉄道もなかった。呉服・荒物から始め、海産物・ニシン場経営にも手を出し有数の大店になっていた。
明治20年代後半になると、小樽商業界は一つの転換期を迎える。松前城下から引越してきた近江商人らが牛耳っていた呉服・太物・荒物の分野に本州大手商社が進出しそれまでの濡れ手に粟式の植民地商法に限界が見えてきた。
時代の流れに敏感な石橋は、色内の呉服店はたたんで奥沢に蔵を建てて醤油醸造業に専念。野田のキッコーマン、上州のキッコ―ショウと並ぶ日本の醬油御三家の一つに数えられるに至る。
♦商圏拡大に便乗
明治36年の小樽駅開業で、函館の商圏だった黒松内周辺までが小樽の商圏に移り米・呉服・雑貨類を小樽から出すようになる。さらに二年後の南小樽駅開設によって函館本線が全線開通し、小樽商圏の奥地拡大に直結する。
こんな時代に吉次郎は独立し、店を張った稲穂の湿地が半年後に小樽中央駅の駅前になる。勝納川口にあった船着き場は野口商店前通りの先に移り、駅前からスタートする市街地形成がまちづくりに直結する時代の流れに乗る。
石橋からの独立に伴い、野口商店に移った人の出身は加賀12、江州3。しかも3兄弟1、2兄弟2と縁戚関係も濃密。言語・習慣が違う他国人は使いづらい。と店内を身内で固める当時の状況をよく物語るエピソードだ。
吉次郎にとって明治35年はケジメの年だった。独立して5年。小樽駅開業で稲穂地区が開発ブームに沸き、醤油販売は好調そのもの。後継ぎの喜一郎は庁立中学に合格し、故郷二日市の墓地に両親の墓を建立する。両親の墓を建てることは、成功のシンボルであり、石もて追われた移住者が故郷に飾った錦は親の墓に始まり、さらに金沢別邸・神社造営と続く。
明治44年金沢城の大手門に近い武家屋敷街の一角を占める木谷邸を買う。あまりの豪壮さに持て余し、地元では手を出す人がいなかったそうだ。金沢別邸購入を巡り、①故郷へ錦を飾るのは石川県人の憧れ②渡道前に受けた金沢商人のひどい仕打ちへの思い返し③余勢を真宗のメッカ金沢で念仏三昧に過ごしたいとの法縁…などの理由が挙げられている。
生まれ故郷での錦に囲まれた16年間の金沢生活から、やはり小樽でと決めたのが大正15年。欲しいという土地会社に買値の十倍24万円で売って、代金決済が済んで8ヵ月後に大火で焼失する。「なんたる幸運、神の如き予見」と地元新聞が報じた。
吉次郎のツキは、二代目喜一郎、三代目清一郎と続き、今は四代目。潮見台の丘の和光荘は「北の誉れは野口の誉れ」と持て囃された喜一郎設計の大正建築である。
~会議所の百年・小樽商人の軌跡
小樽商工会議所百年史執筆者
本多 貢
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