小樽運河史

2020年04月29日

緒言

 運河とは、舟運・灌漑・給水等の目的を以てつくられた水路の称呼である。

 運河の歴史は古く、おそらくは人類文化の発祥に遡ると思われ、エジプトに在ては紀元前すでにナイル河と紅海とを通じ、隋の煬帝(A.D604~16)は、揚州より北上して天津にいたる大運河…Grand

Canal 掘りさくの工事を起して黄河と長江を結んだ。

 ラインやエルベ・ドナウなどの大河が豊かに流れる西欧の諸国では、これを互いに運河でつなぐ航通路が縦横に掘られ、アムステルダムAmsterdamやミンデンMinden・ウイーンWien等の運河都市を形成する。

 我国でも明治十年…宮城県桃生郡野蒜に於て、鳴瀬川より北上川に連結する疎水を試みたことがある。野蒜運河と呼ばれる。

 『明治八年聖上北巡 大久保参議従駕 観石港海口 不可泊大艦 策疏北上川合鳴瀬川 開野蒜海口為港湾 削新渠三里築閘門 澗九千歩深十四尺 以容巨舶三十隻 築堤七百六十尺 以便船舶出入 興役五年至十五年成工面流砂淤塞 至十八年止工』(塩松勝概)。

 明治二十三年の琵琶湖疎水(三井寺観音堂下より藤尾に至る一三四〇間)また然り、やがてスエズ運河(1869)に次ぐパナマ運河(1914)の出現は、地峡を開さくすることによって、よく世界の大洋を通したのである。

 然し小樽の運河はこれとはちがう。

 開さくや掘りさくとは全く正反対の、海面埋立によってできた運河だからである。

 即ち……一定離岸の海上に、島提もしくは半島形の埋立工事を施すとき、埋築地と陸岸との間に、一条の水路がひらくのは当然であり、これを埋立運河と称する所以である。

 今回小樽市は、荒廃しつつある小樽運河(第一期埋立運河)、ならびにその周辺に散在する石造倉庫群の総合調査を実施することになり、調査の対象をなす一部門として、これが歴史的背景を叙述するよう、不肖その委嘱を受けたが、小樽運河とは先づこのようにして出きた運河であることを知る必要がある。

 それは明治三十二年以来、小樽港改良工事願いとして出願されたもののうち、港湾荷役の便法として採用された埋立事業の一形態であった。

 当時小樽区の埋立事業としては、港のほぼ中央に位する立岩を中心として、これより以北の工事を第一期、以南の工事を第二期としたが、埋立の範囲が公有水面であるため、政府の厳重な監督規制下に置かれて一々その支持通牒によって許可を得ねばならず、またたとえ許可されても起債や予算の関係で直ぐには着手できぬ場合もあった。

 第一期区営埋立工事の如き、設計を変更し直すこと五度びに及んで、大正十二年最終運河の出現を見るまでに、実に二十有八年の歳月を要したのである。

 しかもこの海面埋立事業は、小樽歴代為政の眼目であり港民最大の関心事でもあったため、埋立の設計をめぐって甲論乙駁…政争の嵐を呼んだことも一再に止まらなかった。

 現に運河工事進行中の大正七、八年のころになつてすら尚且つ変更動議が出されて、区会を揺るがしたことを思えば、その成因は波瀾重畳の一語に尽きる。

 また第二期区(市)営埋立工事は、対岸に鉄道院の第二期埋立工事が進んだため、勝納川の河口を基点にして両者の間にいわゆる抽出し型の運河をつくった。

 第二期埋立運河と呼ばれる。

 ともに従来の運河のイメージとはかけはなれた異相の運河であるが、第一期運河が多分に意図的であるのに比し、これは、合成に成る遇然の帰結である。

 一方、石造倉庫群は明治廿年代の初期…埋立による北浜・南浜町が造成されて以来、その敷地に建てられたものが多く、その殆どが営業倉庫である。

 ただ、後年これら石造倉庫群の全面に運河が構築されたため、一見運河の附属物的観を呈するが、本来は遥かに運河以前のものである。

 以上を要するに、小樽運河といい石造倉庫というも、その歴史的背景をなすものは埋立史であって、その中に奇しくも胚胎した運河と倉庫とが渾然一体となって全盛時代の小樽を表現し、他都市に見られぬ郷愁の景観を今に伝えていると云えよう。

 なお本稿では調査の目的から、小樽運河と云えばこの第一期埋立運河を指すものであることを、附記して措く。…[渡辺 識]

図9 明治三十七年炭礦と和解当時の埠頭岸壁式埋立設計図……左方の囲は色内船入澗 右方の暗黒部分はあらたに鉄道庁に編入された埋立区域である

図10明治初年の立岩

立岩…明治三十二年六月、小樽高島両郡総代理人が埋立を申請するに当って基準とした立岩は、水天宮海蝕台地前の海中に屹立した巨大な岩礁で、古来幾多の先人の目にふれたヲタルナイの表徴であった。

 港のほぼ中央に位するところから海汀埋立を設計するに当っては常にこの立岩が中心となり後年運河構築の際もまた同じであった。

 即ち立岩以北が第一期工事であり以南が第二期工事である。 

 そのご相次ぐ大正・昭和の埋立工事によって今は全く影を没して了つたが、その雄姿は松本吉兵衛・日賀田帯刀・松浦武四郎ら先人の筆に描かれて小樽の歴史のなかに生きている。

図11鉄道路線先の烏帽子岩

烏帽子岩…第一防波堤の突き出たポントマリ岬のかげウマヤ海岸の先に在り、その名の如く烏帽子に似て頗る目立った。

 この辺り一帯、北海道炭礦鉄道の区域であるが、明治二十九年以来小樽区が第一期工事として立岩より烏帽子岩にいたる海域の埋立を公表して揉めたことは本文記載の通りである。

 因みに烏帽子岩は明治四十四年鉄道院の高架橋築設の際に取除かれて姿を消した。

 

第一章 埋立ノ歴史

 

 埋立が小樽の都市建設に重要な役割を果たし、港湾修築の根幹をなすことを知った小樽・高島両郡の総代理人らは、明治二十九年三月六日に相談して、各町の公費を以て小樽港の綜合的海面埋立を請願するに決し、小樽外六郡長金田吉郎・出席総代理人布施市太郎他十人の名に於いて、総代理人のなかから山田吉兵衛・渡辺兵四郎・鈴木市次郎・高橋直治・佐野亮の五名を挙げて海面埋立調査委員としたが、翌三十年十二月には小樽港の重要性に鑑み、官民合同の小樽港湾調査委員会が発足するにいたり、この調査が終了するまでは何人の埋立請願も受理しないというのが、道庁の方針であった。小樽港湾調査委員会の顔触は次の如くである。

 

渡辺文書……小樽の元老渡辺兵四郎(一八四六~一九二二)の蔵書

 渡辺兵四郎は秋田能代の出身。万延元年十五才にして渡道。豪商山田兵蔵に仕えて慶応二年十月ヲタルナイ役所が焼けたときには消防その他に尽力して金五百疋の褒賞を受けた…ときに兵四郎二十一才であった。爾来山田家の総支配人となり、独立ごは文字通り小樽の政財界を代表した。

 明治四十五年四月より大正五年二月九日迄第五代小樽区長をつとめたが、在職中の記録はもとより総代人以来の文書など丹念に綴ぢて分冊とした。

 のち嗣子得郎氏よりこれを市に寄贈されたが、つとに市史編さんの宝典となり、特に運河着工時の区長として、この運河史に資するところ甚だ多い。

 

 

図34 運河以前の南浜海岸…日ノ丸の旗をあげた小樽倉庫

図35 運河以前の北浜海岸…左手前の石蔵は広谷倉庫

 

図16 運河工事 其一

図17 運河工事 其二 浚渫船住吉丸の活動

 

図23 運河構築前の南浜町(色内)船入澗 其一

図25 運河構築前の南浜町(色内)船入澗 其二

図31 小樽運河成る

 

~小樽運河史

昭和五十四年八月発行

発行者 小樽市長 志村和雄

執筆者 渡辺 悌之助