第1回 小樽誕生

2020年08月04日

 小樽市は、幕末期、の慶応元年(一八六五)に「小樽内が村並になった』ときに誕生したことになっている。だから既に昭和四十年に開基百年を迎えている。「先人の足跡を想いおこして、その雄図をしのび、おのおのが現時点に生きる市民としての歴史的役割を確認するため、エピソードや写真でわかりやすく一〇〇年の歴史を表現した」と、当時の安達市長が序文を書く記念誌を発行した。

 わが商工会議所はそれより遅れること三十余年、明治二十九年(一八九六)に誕生した。だから来年が創立百年目になる。今回、縁あって会議所百年史をまとめることになったので、会報「SEAPORT WALT」の片隅を借り、『小樽商人の軌跡』と題し、暫く連載してみよう。

 VISUALでわかり易く、という注文。もとより読んでもらわなくてはなんの役にもたたない。この部分が足りない、間違っている、こんな方法もある、といった御助言を期待している。

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 まずは小樽誕生。「村並になる」という意味から始めてみよう。

 先住民族のアイヌの住んでいた島がアイヌモシリ。そこへやってきた本州の日本人は、種子島に漂着した異人が持っていた銃を瞬く間に自分達のものにして、戦国時代の激烈な生存競争を生き抜いて来たような集団だったから、力づくでは勝負にならなかった。

 松前藩は米の採れない場所に住むアイヌとの商品交易を財源にしていた。蝦夷ヶ島が日本に組み込まれた時から、産物交換、交換経済、物を作るのではなく他人が生産したものを売る。つまり商業が基本だった。

 家臣への給与が先住民との貿易する権利、という特殊な形が松前藩の「場所制度」。現在の小樽市域には小樽内と高島の二場所が設けられた。藩の出張所としての運上屋に、場所経営をまかされた請負人が住み、本州から出稼ぎに来た和人を使って漁業を営んだ。十七世紀初めの慶長年間に、松前福山の八木勘右衛門がオタルナイに来て漁業をしたのが第一号だという和人の出稼ぎは、二百五十年後に三百十四戸、千百四十三人の集落を形成するまでになっていた。定住者が増加するようになると、中間支配体制の運上屋は邪魔になる。

 一般住民に自由な活動を保証する事で地域経済を発展させようとしたのが、村並移行の建て前だったといえようか。場所請負人だった恵比寿屋に対する浜方の任期は極めて悪かった。と伝える資料が残る。

 小樽内が村並になる前年の元治元年に、函館寄りの長万部・山越内の両場所が同じように請負を廃止して村並になっている。道南から始まったアイヌモシリの和人化が、この時期になってようやく積丹岬を越え、石狩湾沿いの小樽にまで到着した、という当時の情勢を示している。

 しかし、蝦夷地を直轄せざるを得なかった幕府は、財政的にも行き詰っていた。そこで場所請負の大商人から経営資金を臨時調達しようとしたが、その意図に反した者を「場所内の良民を圧制強欲で苦しめた」という口実を設けて、場所の請負権を取り上げて直轄にした、のが真相だとの見方もされている。

 未開地から村並になったことで、中途半端ながら村役人が置かれる自治体になった。名主に選ばれた山田兵蔵はまず道路造り公共事業を始め、収納会所で住民から税金を徴収する。 

 村役人としては山田名主に年寄が中野三蔵、さらにアツトマリ・ハリウスなど場所内の各地に、頭取、小頭・百姓代といった住民代表が任命された。蝦夷地を再直轄した幕府は、江戸・大阪・堺・鶴賀の四港に会所を新設し、蝦夷地の産物を対象に商売しようとする商人から買受け予約金を出させ、それを蝦夷地経費に充てようとする。当時既に西蝦夷随一の漁場になっていた小樽の産物が、城下を素通りしてしまっては松前商人が成り立たない、と幕府に陳情するが、にべもなくはね付けられる。

 今度の幕府直轄は、前回が国後・択捉など帝政ロシアの千島沿い南下政策だったのに対して、樺太の領有権を巡るロシアとの駆け引きが主眼だった。だから、幕府は北蝦夷と呼んだ樺太経営を優先する。

 本州各地との窓口になり、松前藩の財政を支えたのが福山・江差・箱館の三港。これに比べ、小樽港は最初から日本海やオホーツク海沿いの蝦夷奥地、特に樺太の漁場開拓の根拠地とされる。沿岸貿易による後代の繁栄も、誕生と同時に運命付けられていた。

 安政二年(一八五五)箱館開港の翌年、移民永住許可が出たことで、それまで店といえば浜の食べ物屋ぐらいだった小樽に、衣服・米味噌・雑貨などを扱う商店が出現する。商人の姿が町に中に見られる時代に至る。

 初代名主の山田兵蔵が信香に日用百貨品の店を開いた時、「店に無いのは馬の角ぐらい」というジョークがとんだそうだ。こんな話が伝えられるのは、当時の住民がこの種の店に抱いた期待感の大きさを物語っている。現代から見ればコンビニストアの足元にも及ばないチンケな店だったろうに-。

 兵蔵が安政五年に建てた土蔵が石造倉庫群で有名になった小樽の土蔵第一号。山田は山を削り溝を掘って新地町をひらくなど、初期のまちづくりの先頭に立っていた。土蔵を使って質屋も営業し、利息は月4分だったとか。

 この時代は信香に人口が集中し、手宮・色内は漁場で、商店は現金取引なしの年一回五月決算の掛け売りが一般的だった。

 このころの小樽を訪れ、挿絵付きのルポルタージュをものしたのが松浦武四郎だ。北海道の名付け親で、「東西蝦夷山川地理取調紀行」の表題で出版した西蝦夷日誌第四編に、安政三年のヲタルナイの現状を次のように描写する。

 ……出稼漁夫の家が十二軒あるアリホロ(有幌)、十三軒のノブカ(信香)を過ぎて、運上屋前から弁天社の後ろを回り、浜伝いに勝納に来ると橋が架かり人家が多い。この辺では三十人五十人と大掛かりに出稼をつかう番屋が続く。番屋に板作りの倉や稲荷社があるアツトマリ(厚泊)やアサリ(朝里)を通り、さらに人家が続く海岸を行くと、カモイコタン。……

 「弁天社より眺望」と説明が付き、中央に大木が二本枝を広げる挿絵は、遠く石狩湾を越えに暑寒別岳を望み、札幌側の右手に舟泊がある朝里、左手はヲコバチ河口と手宮に数隻と詳しい。

~会議所の百年・小樽商人の軌跡

小樽商工会議所百年史執筆者 

本多 貢