北海製紙の礎 森正則

2020年06月09日

 大正デモクラシーの遺産ともいうべき普通選挙法による最初の衆議院選挙は、昭和三年二月二十日に行なわれた。北海道は五区に分れたが、一区の定員は四名のところ十一名が出馬したのである。そのなかには日本共産党の幹部山本懸蔵の姿も見えた。

 〈普選最初の総選挙は政府の魔手によって汚されたが、又同時に普選の制定者と自負した民政党が、政府の暴に酬ゆるに暴を以てして投票売収、選挙民誘拐の醜行を敢てしたことも看過できない憤憾事であった〉(明治大正史・政治篇)が、一区の当選者は次の通りである。

中西六三郎 一七五〇一 政友

山本厚三  一二三九五 民政

森 正則  一二三九三 政友

岡田伊太郎  九八九八 政友

 山本は小樽でも名だたる財産家、対するに森は一介の奉公人からたたきあげた苦労人である。さなきだに政争熱の激しい小樽のこととてこの決戦は大向うを唸らせたが、僅か二票の差の当選という大相撲であった。

 森正則は明治五年に愛媛県松山の岡本家に生れた。長じて小樽の土を踏み、武市清市の口添えで色内町の早川商店に入った。これは茶、紙、文房具などを商う店である。武市は小樽郡役所時代の初期で、後の北海道初の道議会選挙では、上川で寿原重太郎を破って当選した人物である。

 早川良三は街の随所に支店を張っていたが、色内町の支店は森久通が仕切っていた。彼も同郷松山の出身である。松山藩は維新時には衰退の幕府に殉じたが、決定的配船の鳥羽・伏見戦では、会津藩の護衛役をつとめ、京都、大阪間を往復して軍務に就いた。

 明治になって小樽に来て、既に牢固たる商権を築いていた早川チェーンの一員となったのである。店は極めて繁昌したが、人格高潔な久通は公共事業にも甚深の関心を寄せたが、晩年には下賜の木杯は二十余、褒賞状は三十余の及んだという。養嗣子に迎えた正則に店の経営を委譲した彼は、やがて松山に隠遁した。

 正則は久通の構築した商権の発展に献身したが、旧習墨守の商法の打破が最大の目標であった。三井銀行と並んだ色内町の石造店舗には飾窓をしつらえ、店内を廻廊式にして客の便宜を計り、商品の陳列にもゆきとどいた配慮を示した。封筒、パッケージ、ダイレクトメール、新聞雑誌の利用など、多角的な広告キャンペーンを張って新機軸を画したりしたのである。

 取扱品でヒットしたのは、銘茶旭の森と日本武士という鉛筆である。殊に日本武士のマーケットは本道は勿論、東北一帯も制圧し一万本をさばく好成績を収めた。こうして正則は温厚篤実な人柄も相まって、小樽経済のエースとして頭角を現わし後に商業会議所の会頭の椅子を得たのである。

 大正九年。時の内閣は陸軍大将寺内正毅主班の内閣で、政友会は準与党の立場にあった。前年十月、加藤高明を総裁として結成された憲政会は、国民党、公正会と連合して討幕を計ったが、政府は体をかわして一月末に議会を解散させた。そして第十三回総選挙は四月二十日に行なわれた。

 小樽は政友会の寺田省帰と新党憲政会本部相談役の重職に就いた金子元三郎との対決である。これには金子が当選したが大量選挙違反検挙者を出して失格、このため憲政会系の篠田治作などが道議の席を退く破目になりここに正則が政友会をバックに九月の道議補欠選に出馬したのである。

 この年大正九年は小樽あげて政争一色の年であった。選挙に先立って‶大風呂敷〟の後藤新平の内相や‶無能相〟こと仲小路廉商務相が来樽して政友会に花を添える。一方憲政会系では‶憲法の神〟尾崎行雄の来樽に気勢をあげる。またもみにもんだ区長人事も、やっと政友会系の永井金五郎が赴任した。

 こうした状勢のもとに、政友は衆議院議長大岡育造を始め秦豊助、荻亮、憲政では森田勇次郎、秋岡徳生などの論客を招いて、はなやかな言論戦が展開された。

 大衆の把握戦術にすぐれていた小樽憲政も、金子対寺田の選挙戦のとばっちりをうけて大量の選挙失格者を出したし、それに正則は与望は高かった。。こうしてここに道議森正則が誕生しそしてその政治生活は、衆議院議員に絡がることになったのである。

 代議士としての担務は予算委員。山東出兵、済南事件、張作霖爆死、抗日排日運動の激化…こういう国際的暗雲のなかで、正則は満蒙、朝鮮、支那視察議員団の一員として大陸に飛んだりした。

 しかし失政続く民政会田中義一内閣の命脈は長かろうはずがない。昭和五年一月二十一日解散、そして二月二十日には第十七回総選挙が行なわれた。その結果解散当時の政友二三七、民政一七三の分布図も、政友一七四、民政二七三と鮮やかに逆転し、正則もあえなく苦杯をなめたのである。

 政治家としての正則は、決して目覚ましい業績を残したわけではない。戦国縦横の機略を必要とする議会のような修羅場は正則のものとは所詮異質の世界であったようだ。彼は不斗史の号で書道や漢詩づくりにいそしんだが、その号は幼名の太をひねったものである。書道の虎の巻といわれる王義の法帖などの、希観本を愛するといった文雅の好事(こうず)家であったからあくまでも政界にしがみつく執念などはさらさら無かったのであろう。

 彼が関与した事業には、北海製紙、昭和倉庫、物産倉庫、北海道商工銀行などがある。このうち北海製紙は、正則の三男四女のうちの長子久則が今日の社長、塵紙メーカーとしては、国内でも大手筋に数えられているのは周知の通りである。これは正則の大いなる遺産であるといってよい。

 北海道の和紙の製造は、安政三年に幕府御用人であった箱館奉行所下吏の鈴木圭一郎が、谷地頭に紙座を設けて製造したことに始まるが、明治三十七年の函館製紙合資会社が生産規模にエポックをかくした。

 小樽では明治三十四年に、笹野文作によって新富町に製紙工場が設けられ、石塚式製紙機によって和紙を製造したのが第一号。第一次世界大戦が勃発すると、好景気の波にのって多くの工業会社が続出したが、正則が資本金十万円の北海製紙を創立したのは大正七年であった。

 正則が製紙に思いを至したその動機は何であろうか。文房具店の主人として、滔々たる文化の没頭にのる紙類の伸びを確信したのはうなづける。それと同時に、彼の生地愛媛県が紙の特産地であることも考えてみたい。

 十四世紀の頃伊予即ち愛媛県の河野一族が、周防(山口県)の山伏に移住し、始めてコウゾに製紙法を伝え、爾来山伏は紙が米に次ぐ藩の貨幣収入源となった。今日でも愛媛県は紙幣の原料ミツマタの主産地で、千円紙幣以上の原料紙は全部同県の産である。

 久則は明治二十九年九月生れ慶大理財科を卒えて外国に留学した。

 北海製紙は戦時中も工場設備助成法が適用され、廃紙の再生で高級紙を製造するなど、優れた技術開発を行なった。現在塵紙メーカーとして大きく伸び特に一昨年には僅か三年の間に三倍の伸びを示したが、これは新製品のティッシュペーパー‶ホクシー〟の開発による賜物である。久通、正則が地固めした道は久則の代で爛漫の花に匂ったのである。

 

 なお正則の長逝は昭和十一年一月二十六日、行年六十五歳。彼は大正十四年発足の会員制小樽取引所の理事長であった。

~小樽豪商列伝(29)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より