汚職の船成金 犬上慶五郎
2022年07月11日
大正末年、元耄に遠隔操縦されていた無責任政治の中で、政治資金をめぐる大規模な疑獄事件も相次いで発生した。。中でも大阪松島遊廓事件はその極付と云われている。これは女郎部屋団地ともいうべき遊廓の移転について、土地会社の重役達が各政党の領袖に多額の黄白をバラ撒いた事件である。
連座した者は政友会幹事岩崎勲、憲政会筆頭総務箕浦勝人、憲政本党党務委員長高見之進等中川府知事にも十万円収賄の噂が飛び、、収監された箕浦は時の首相若槻礼次郎に偽証の告訴をたたきつける羽目にまで至った。この時の運動者の一人柴谷利一という土地会社の社長は、その資金二十万円の捻出は、土地を抵当にして板谷宮吉から得ている。しかし十四年の十一月には運動から脱退したが、贈金の相手は憲政会総務富田幸次郎である。板谷は貸金の使途を知っていたかどうか。それにもまして興味深々たることは、この巨額を調達した板谷の長者ぶりである。そして彼が死亡した高橋直治の後を引き受けて、貴族院多額納税議員選挙に当選したのは大正十五年七月。獄中の箕浦が若槻を告訴する四ヶ月であった。
北海道での初の貴族院議員は函館の大富豪相馬哲平で大正八年の当選。しかし寄る年波に耐えきれず辞任したが、補欠選挙で当選したのが小樽の犬上慶五郎である。
犬上は第一次世界大戦の船景気で一躍巨富を掌中にしたラッキーボーイであった。同じ貴族院議員でも金子元三郎や板谷の如く父祖の大いなる遺産を継承した訳でない。さりとてニコヨンからたたきあげた相馬の櫛疾風沐雨の苦節はない。時勢そのものが彼を突出させたとでも云うべきだろう。彼が汚職ニッポンのヒーロー小川平吉劇の中堅スタートして、華やかなフットライトの七彩を浴びるに至ったのも有体に云えば黄金神組し易しの驕りのしからしめたゆえんかもしれない。犬上にまつわる汚職事件は、「樽商任くところ敵は無し」の好況時代が生んだ歪みの典型でもあった。
慶五郎は慶応元年松前福山の生れである。幼時から函館に移った彼は、長じて小樽に転じて回漕店を営んだ。
この商売について、慶五郎には木下成太郎との間に面白い逸話がある。後に北海道政友会の‶天皇〟となった木下は当時厚岸一帯に君臨していたが、清国の粛親王を奉じて革命を起してやろうという物騒な計画をたてていた。
そういう時、清国駐在の英国武官が道庁に清国敷設の鉄道枕木を発注して来た。時の道庁殖民部長高岡直吉はこれを木下に一任したのである。木下は得たりとばかり、陸軍参謀部の庇護で開校した札幌の露清学校の中野二郎と共に大陸雄飛を計画し敬太郎が五千㌧、三千㌧の船を用意した。ところがその船は厚岸沖合で座礁し、木下の回天の夢は脆くも敗れ去ったのである。なお慶五郎も後に政友会入りをしている。
資本金五千円で店を合資会社化したのは明治四十年三月。前後して長谷川直義が栗山回漕店を合資会社にし、西谷庄八は北海早達組を買収して北都組と改めた。また大竹回漕店も奥野豊次郎によって合資会社を改組している。この一連の動きは、樺太領下による市場の拡大、輪西製鉄所、帝国製麻、札幌水力電灯、日本製鋼等の発足―即ち北海道における産業資本主義が、漸く軌道に乗り始めた当時の諸情勢を反映した回漕事業の近代化の志向である。
慶五郎は当時社名を北海道炭礦汽船と改称して、事業の版図を海にも拡げた北炭から、その所有船の三番目の札幌丸を購入した。この一五九九㌧の汽船こそ彼にとっては宝船のタグボートとなったのである。続いて鳥羽丸(二一六〇㌧)、富美丸(二〇七九㌧)を持ち駒に加え、第一次大戦が勃発した大正三年には、早くも板谷、藤山等の大者に次いで小樽海運界の実力者にのしあがった。そして驚天動地の船ブームに逢着したのである。
日本の船成金といえば、四五〇〇㌧の汽船一隻からスタートして、大正四年には十六隻を保有し六十割という驚倒的な配当を行った内田信也。それに山下汽船の開祖山本亀三郎。札幌農学校出身の‶虎大尽〟山下唯三郎達がスター級であるが、阪神、中国地方への航路を掌握した慶五郎の船は大正末には七隻二一七〇〇㌧に達している。戦争終結のころの国税は五一七三〇円で、北海道金満家のスターダムに突入。九年には大恐慌でしたたかな打撃を蒙ったが六月には遂に‶貴族ならざる貴族〟の仲間入りをすることが出来た。
彼は本業以外に日本海運、向島ドック、大正水産、東洋海業工業等の事業に参与したが、汚職事件の淵源がこの一連の海の商売でなく、お門違いである筈の陸の商売であったのはいささか皮肉である。
大正八年。北海道には北海道第一次拓殖計画に則って私鉄にも助成金が与えられることになり、私鉄ブームが沸き上がったが早来からは金山に至る四十七キロの路線を計画したのは、室蘭の有力者楢崎平太郎であった。三井をバックとする苫小牧勢の落合―苫小牧路線を蹴落する事が出来たのも、松方財閥をかつぎ出した楢崎の政治性である。
大正七年八月、千万円の資本金による北海道鉄道株式会社とし発足。結局沼ノ端・辺富内、(現在の富内)間として完成したのは十一年七月である。しかし大正九年の恐慌の打撃の煽りをうけた楢崎の虚をついて、様株を買取ったのが慶五郎であった。
ところが慶五郎は、室蘭と十勝の距離を短縮せんとする楢崎の計画を御破算にして、室蘭と小樽を短縮化する計画に着手した。それが沼ノ端・稲穂間の現在の千歳線であるこの経費は払い込みと社債発行による二百九〇万円。しかし完成後も収支が思わしくなく、昭和二年五月の重役会議で政府に買上げてもらう方針が打出された。これが汚職劇のプロローグとなるのだが如何に大規模なものであったかは、次の大阪毎日新聞の記事見出しが端的に示している。(昭和八・二・三)
収賄実に六〇万円、その巨額なる点において我国潰職史上空前
昭和二年秋。慶五郎は代議士の青山憲三を介して、鉄道相小川平吉の代弁者である元代議士の春日俊文に二十万円を渡して政府の買上を依頼した。北鉄の当事者は慶五郎の他に取締役の渡辺孝平、監査役の兵頭兵作(共に函館在住)がいる。
「私は、どうもそう云う運動など一向に不向きであるし、てんで経験のないことなので、それではその運動を社長指令の人に頼むことにするから、そうさしてくれと云うので」其場で渡辺と兵頭に一任(人物覚書帳)した。しかし公判模様を報ずる新聞記事では渡辺は渡辺でこれは犬上と兵頭が当ったことで俺は知らないとシラを切っている。
小川は五十六議会に提出したが両院協議会で買収せずと決定。慶五郎は責を負って辞職し兵頭と共に五、六万円の私財を投げ出して泣面に蜂であった。
昭和二年七月、政友会田中義一内閣が民政党浜口雄幸内閣に交代するや、摘発によって田中時代の汚職が暴露され、ここに世の視聴をそばだたせたいわゆる五私鉄疑獄事件が発生した。慶五郎・渡辺・兵頭はいずれも‶懲役八ヵ月〟の起訴を受けたが渡辺と兵頭は世にいう買勲事件にも関係して、併合審理となったのであるからややこやしい。
渡辺の先代は明治十五年に我国で初めて藍綬勲章を貰ったという傑物。養子の二代目は「それなら俺にも」という訳で兵頭を通じて賞勲局総裁天岡直嘉に売りこんだ。現ナマとバーター制によって、垂涎おくあたわざる勲章を得たのであるから天晴れなものである。余談であるが〈函館市史〉(昭一〇)は彼の人物論中〈紺綬褒章、藍綬褒章を賜はり、又各方面より授与された金杯数個、その他賞杯、賞状枚挙に暇なし。市民の恩人として感謝されていることは当然のことである〉と書いている。舞文曲筆もここにきわまったかの感がある。
昭和八年五月、五私鉄事件は物証ののっぴきならない湾鉄を除いて無罪。しかし世論の攻勢に耐え兼ねた検事側が控訴して第二審では北鉄を除いて有罪というドラマチックな逆転劇を演じた。かくて慶五郎は晴天の白日の身となった。物証の無かった故の無罪であった。なお彼は後藤新平の子分の畑金作経営の寿都鉄道(黒松内―寿都)にも投資していた。
この汚職劇のマネージャー春日は、前述した木下と関係がある。木下は北海道での政友会系の新聞北海道報を創刊したが大正三年に道庁から基本財産造成という名目で山林の払下げを受け、その社屋と工場を建てたというえげつなさ。道報の支配人が春日であったが、当時憲政(後の民政)系でまさに同床に異夢。面に〈社長と意見合わず本日限り退社す〉云々の広告まで掲載して平気で出社したりした。後に同郷の小川を頼って政友会入りしたのである。
其後慶五郎は如何なるコースをたどったか。昭和十九年の〈北海道樺太年鑑〉には犬上商船株式会社資本金七十万円。社長犬上慶五郎、取締役犬上慶雄、犬上慶三とあり、同族会社の命脈は長く続いたらしい。
~小樽豪商列伝(22)
脇 哲
月刊おたる
昭和40年新年号~42年7月号連載より
~2020.5.29~
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