‶不在地主〟のモデル 磯野進

2020年05月27日

 小樽の豪商達は本業の基礎が安定すると、未だに荒蕉の様相を呈していた未墾の大地に向って突撃を開始した。この種の事業の投資や拡張には同業者の激越な競走がない。しかも北海道の開拓を国家の急務とする当局は彼等に対しては協力的であったから万事分が良いのである。

 明治三十六年十月現在、三十万坪以上の土地を所有する小樽人は二十七名。また大正九年の記録によれば五十町歩以上の土地所有者には木村円吉。山田吉兵衛、寺田省帰、板谷宮吉、西谷庄八といった錚々たる人の名前が見える。この両年次の後先に関わらず、小樽人の土地持の主なる場合を列挙すると、白鳥永作が祝津に九万坪。金子元三郎が幌向に二百万坪。藤山要吉が留萌原野に三百万坪。石橋彦三郎が角田に七十三万八千坪といったところである。そして農場争議で時代的背景はどのようなものであったか。大正初期から散発的に発生してきた小作争議は、第一次世界大戦後、生活苦と農民組織の結成と相まって次第に尖鋭的な内容となってきた。〈明治大正史・経済篇〉(朝日新聞社刊)は次の如く記している。

 大正十年を転機として、小作争議の発生件数は急激に増加し、全国に拡大すると共に、小作人は小作料与納同盟を結び、共同保管、共同売却等統制ある争議を行ひ、各自争議費用を拠出して組合を結成し、持久的戦術に出づるようになった。即ち小作争議は玆に益々階級斗争の色彩を明確にし、小作人側では農民組合を、地主側では地主組合を結成して対立することになったのである。小作争議件数は大正十年以来十五年までに約一千件を増して、十五年度には二千七百五十一件という驚くべき状態となった。その間各地に簇生した小作人組合は、大正十一年四月全国を区域とする日本農民組合が設立せられ、十五年には更に全日本農民組合同盟が生れた。

 このような時代相を背景にした北海道の小作争議には、大正十二年の板谷農場でのそれがあり、十五年秋の磯野農場のそれがある。特に後者の場合は、この年の九月には旭川に於て二十支部、三千余人の勢力を結集して日農第二回大会が開催されておりしかも、蜂須賀農場の争議もクライマックスに達していたから農民側にしてみれば、引くに引かれぬ天目山の斗争であったのだ。

 

 当時の磯野進は小樽商工会議所(昭和二年四月五日、商工会議法が公布され三年一月から施行された)の会頭であった。従ってこの小作争議のもたらす社会的影響は深甚たるものがあった。ところで彼は後日、記者のインタビューに対して次のように語っている。

 「今年はどうも妙な年で世界では大変凶作のように云ってるが、小作人共は其割に不作ではないと云ってる。ところが去年は世間では豊作のように云ってるが、小作人は悪い悪いとわめく。どうも小作人と世間の予想はいつも逆だね」(人物覚書帳)

 小作人と彼との歯車はいつも噛み合おうとしない。そこには埋め難い間隙がある。ここに彼の悲劇があるのではあるまいか。

 

 彼は明治五年四月佐渡の両津に生れた。中央大学の前身である東京法学院を卒業して会社勤めをしたが、小樽の人となったのは三十年である。ところが二年後にはいち早く第一期の区会議員に当選し。それが十数年も続いたのは養家の磯野家の重みもさりながら、矢張り彼進は凡器のたぐいではない。

 統計居士の異名が示す通り、数理係数概念に富んでいる彼であったが、正確極めて狷介で渡辺兵四郎、寺田省帰と共に三羽鳥の頑固爺と目されていた。政治活動でも小樽政友会の色内派の頭領たる貫録こそ十分であったが、惜しむらくは人をして信服さすに足る声望に乏しい。争に敗北したのも支援が尠なかったというのがその一因であった。

 色内町で海陸物産商を営み更に北陸人造肥料、北海道精米北海漁業等の会社に参与し、そして明治三十六年には商業会議所議員、更に副会頭を一期会頭を二期勤めた。

 

 妻サク子との間には五人の男子であり、泰三、雄三郎、四郎等はいづれも慶応理財科に進んでおり、典型的な中産ブルジョアであった。下富良野の農場には大正二年現在三十七人の小作人がおり、二百石の米の収穫を得ている。そしてこの年の農場への投資額は二七〇〇〇円であった。(道庁内務部編・北海道農場調査)

 

 争議の開幕は大正十五年十月十二日である。この日小作人代表の伴利八は二十名の先頭に立って(本年度小作料に限り収穫三分までは全免、五分までは八分減)の要求を提供した。その背景にあるものは三月結成されたばかりの日農支部で、(叉組合による争議の行はるるに至ってより、その要求の多く貫徹され又地主側により自発的に小作料を軽減した例をも看るに至った)(新撰北海道史)勢いで、磯野何するものぞの鎧袖一触の意気があったはずだ。

 しかし磯野は小作人に逢おうとはしない。ブレーンの高だ米蔵が矢表に立ったが、この隻手の米国商人もしたたか者でぬらりくらりして交渉は一向に進展しない。そこで小樽合同労働組合、労働農民党小樽支部等も後押しをして全道的に支援を求め米味噌も含めてのカンパが陸続して到来するようになった。

 

 これが尽きると、納入すべき五十俵の小作米を五百六十円で売却したりした。磯野宛の味噌三百樽の陸揚拒否、二時間にわたる同情スト、労働者三百人のデモ、磯野商店の商品がボイコットなど戦術は多岐にわたった。〈富良野菜野に餓死せんとする小作人家族三十名を救え〉等二十種類のアジビラが撒かれ、何回となく演説が開催されたのである。

 壇上に立つ者は境一雄、松岡二十世、荒岡庄太郎、重井敏郎、鈴木源重、渡辺理右衛門、立内清、それに伴等で、絶えず大入満員の盛況であった。この争議で男に列伍して活躍したのは小作人の女房達である。彼女達は雪の降りしきるなかを色内町の磯野宅に向った。夫人に面会を求め、病気で会えないと拒否されると、「それじゃ、病気が治るまで店の隅にでも置かしてもらいましょう」と座り込む程であった。そして演説会の檀上にも立って肺胎をえぐる言句で聴衆の同情を誘ったのである。

 さしもの磯野も次第に弱気を見せるようになる。世人の同情は大方小作人側に集り、「磯野も少しは辛い目にあった方がいいんだ」という噂さえ流れた。こうした時、調停役に廻ったのが市会議員の中島親蔵。そして争議団のリーダーである境一雄は中島がかって小学校時代の教師であったという関係から中島と歩調を合わせた。

 二進も三進もいかなくなってしまった磯野はようやく小作人の交渉権を認め、西野小樽警察署長立会のもとに小樽倶楽部で会見したのは昭和二年三月二十二日である。ところが日農争議部長の重井敏郎は開口一番「ここに、大正十二年一月に磯野さんと小作人が取交した契約書がある。然るに本人達は皆目知らないはずの名前が載っている。それは松本禀次、松本与三郎、小林助松の三人だ。この証書はペテンである」と追及した。

 当時立会人であった松崎富良野町長から証明書を入手し、旭川地方裁判所で開かれた第二回小作調停準備会に提出されたこの証書によって磯野は窮地に追いやられたのである。結局この一点を追求しないという条件で小作争議は磯野の敗北で幕を閉じた。

 板谷農場の争作争議は遡る三年前である。しかし板谷はこれにこりてか昭和初年の凶作時には小作米の全免、八割減の処置をとったり、自作農を奨励して永山の十数戸を解放したりした。昭和三年には日高平取の千六百町歩を自作農に移している。有島武郎のひそみにならった訳でもあるまいが時あたかも野野間問題が喧伝喧されたころで、磯野は益々株を下げた次第。

 このころ拓銀小樽支店に勤めていた小林多喜二は、銀行員の立場を利用して磯野の情報を争議団に流したり、ビラを書いたりした。そして争議終って労農芸術連盟の幹事となったが〈不在地主〉はこの小作争議の産物である。

~小樽豪商列伝(21)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より