会津藩魂 高野源之助
2020年05月15日
北海道初の道会議員選挙の実子は明治三十四年八月十日である。府県会の魁となった東京府会より遅れること二十三年、思えば長かった時間遅れであった。当時の有権者数は僅か二六三五人。三十五の議席をめぐって六十九人が逐鹿戦を演じたが、当選者のうち三九〇票の最高点で首位にたったのが高野源之助である。
ちなみに最低当選者は三十七票の紗那支庁倉沢惣太郎。最も辺境エトロフのこの地方の有権者は五十八名に過ぎなかったから無理もない。ところが高野は十一ヵ月で辞任してしまった。これは翌年八月開催の北海道第一回(日本では七回)の衆議院選挙に出馬するためである。下世話で言えば初物喰いとでも云うことになるであろう。かくして小樽では士族の高野と目に一丁字も無い仲買人高橋直治との決戦となったが、軍扇は金権候補高橋にあがった。これはグレシャムの法則選挙版でもあったが、佐藤守四郎は〈北海道事始〉という図書で小樽の恥部をあからさまに揚抉している。
高橋は小豆大尽といわれ
莫大な軍資金を擁していたが、
概して中産階級の商人がこれを支持し、
政友会が応援しました。
一方高野は人格者で信望があり、
金子元三郎等の系統をはじめ、
資本家が多く馳せ参じた(中略)
しかし、この戦で高橋がバラ撒いた金額は
当時の金で五万円というから。
今の金にすると二千万円くらいになりましょう。
その後小樽の選挙界が腐敗したのは、
そもそもこのときに始まったと
いわれるほどであります。
北海道の経済人地図から会津人脈を探り当てることは至難である。〈風気陋劣、人心頑愚にして右習になづみ、世変にくらく、制馱難渋の士俗〉(会津藩降伏文書より)であるからには商才商機とは所詮無縁であるらしい。小樽での成功者と云えば源之助、そして北海製油、共成北海木材、文珠炭鉱等の経営陣につらなって、明治四十三年小樽商業所副会頭に推された長谷川直義の二人を数えるにすぎない。そして長谷川もまた士族である。……とすれば、士族籍と称する明治期の権威と、それを包むオブラートであった巧まざる世才が、その成功の要となったのであろうか。
それにしても梟商奸商尠なしとは云えなかった。‶北海道の大阪〟小樽で、このような解釈で想定づけるのはちと甘過ぎる。手垢に塗れた慣用語ではあるが彼等を単的に表現するには、矢張り士魂商才と呼ぶのが正鴃鵠を得ているかもしれない。
源之助は嘉永元年四月会津藩士の家に生れた。例の会津戦争には二十歳。文句なく出陣して日光口の防禦の陣列に加わっている。新番組というから、五十石未満の軽格のみちのくのあらえびすであったのであろう。この会津藩歴史の曲り角では長谷川はまだ四歳。しかし明治三十年二量徳小学校の校長となった名教育家住吉貞之進は十七才の花の白虎隊員として越後口で手傷を受けている。
敗北後の会津藩の帰趨は辛酸そのものであった。明治二年九月に小樽に上陸した北海道移住組等は、開拓使と兵部省の内訌の傍杖を食って、四年五月に開拓使小樽本陣(入舟町)に於て余市開墾の約定を結ぶまで、実に一年三カ月の間放置された儘であった。
このころの源之助にスポットを当てよう。彼は同藩の大竹作右衛門に従って和田岬で製塩の事業をしていた。しかしこの仕事も技術の未熟と賃金の涸渇で脆くも行き詰まり、挙句に旗上げの場を北海道に定め小樽に来たのは明治六年である。既に四年三月廃刀散髪許可。二人はまだチョンマゲであったか、腰間に秋水をたばねていたか……。
小樽は色内海岸の石造埠頭も完成して、港湾近代化の原型が輪郭をあらわしたころ。従って二人が回漕店を始めたのは賢明であった。この種の仕事では大竹回漕店が草創の部類に属するが、主権が源之助に委ねられたのは明治十二年。しかし店名を改称しようともしない源之助であった。
明治十八年日本郵船小樽支店の店開きに伴って、いち早くその専属貨物取扱店となる。これが沽券となって後には東京海上、東京火災、万歳生命、日本傷害など数多の保険会社の代理店の信用を得るようになった。また三十一年には藤山要吉等と北海生命保険会社(後に大同生命に統合)を設立。この年に元道官北垣国道が中央資本を大宗として凾館鉄道株式会社を設立したが、源之助は北海道代表三名の発起人の一人となっているから、既に揺るがざる商権の場を抱いていたと云ってよい。更に北海道銀行の取締役。三十二年五月には拓銀の設立準備委員。まぎれもなく財界のメイン・エーベントに出場している。
さて明治も二十年代になると政治的晩熟の北海道にも議会制度の実現を提唱する幾人かの有識者が現れた。小樽では源之助、金子元三郎、山田吉兵衛等である。二十四年二札幌の阿部宇之八達と共に、東京への西岸の途についたのは山田と岡野知荘であった。岡野は東の自由民権運動のメッカの福島県三春の壮士で色内町海岸を埋立てて分譲事業を行った同士土佐の林有造(初代道長官岩村通俊弟・後に逓相・農務省)の幕僚として工事監督に当っていた。他所者に過ぎないが山田の介添役であった。自由民権と云えば、自由党結成の歴史的会議に列した全国代表七十八人のうち、五十四目の議席に着座したのが北海道代表室蘭の本多新である。かれは札幌山形屋旅館の礎業の人大竹敬助の実兄に当るが明治二十三年の第一回帝国議会で、予算案が六五〇万円のよじょうきんを出したのをしった。『これを北海道開発に資せんがため、道民大会開くべし』の檄を飛ばしその相手が源之助と札幌の対馬嘉三郎(札幌初代区長。三十六年源之助と共に衆院選挙当選)。その結果を手記に〈国家的人物なく丸でだ目也〉と書いている。源之助達は奇人本多の気負いを客気としたのか、それとも尻込みしたのかそれを証しだてる史料は無い。
やがて初の道会議員選挙。この時小樽では山田や渡辺兵四郎も推されてこしをあげたが、さしたる情熱もなく三十二票、二十八票で落選。実業懇談会母胎の源之助の快勝は冒頭で述べた通りである。
晴れがましい第一回議会は十月二十五日に開幕した。議員には仙台藩の集団移住の指導者であった田村顕充のような古武士もおれば、寿都の鮪大尽中田善八の如き成金もいる。怪商柳田藤吉や政客東武等多士齊々。勢力分布はいわゆる海派十八対陸派十七であった。
当時の北海道の租税収入は水産税が第一位。従って地方費歳入中の筆頭となり約六割を占めた。さらぬだに商勢不振になりつつある漁業家には大の重荷で議会開期中の二十九日に小樽で全道大会を開催、圧力団体として海派を突上げた。結果に於て海派が苦杯を嘗めたのも鷹揚な名望家や資産家が多く、対するに陸派には千軍万馬の政治書生あがりが犇めいていたからということである。
ところで北海道議会の書き出しの読点とも云うべき提案第一号は、源之助出議による〈小樽商業学校を小樽中学校に変更する件〉である。これが否決された源之助はすかさず〈小樽中学校設立案要求動議〉として斬り込んだところ、簡単に可決されてしまった。当時の議事運営のあやふやを物語って
余りあるようだ。
明けて三十五年七月。源之助は衆院への道に歩をむけて道議を辞任した。その補選で当選した渡辺兵四郎は副議長に収まる。なお源之助はこの年五月に商業会議所会頭に推され翌三十六年三月に辞任した。
さて源之助と高橋直治の対戦遡る十二年前の日本初の衆議員選挙における候補者の適格標準はどうであったか。自由党の江原素六は〈専ら人物選択にのみ恵向し、学術、知識、財産、名望、経歴等により仕官の閲歴、詩歌、俳諧、書画、骨董の鑑定に至る迄悉く其点数とならざるものなきが如し〉(岩波講座日本歴史・一七巻)としている。この栄光の座への旅券ををその儘小樽に当てはめてみたならば、源之助は一頭地を抜いている。事実世人も彼の勝利を信じていた。しかし蓋を開けると二二四票対一七七票で高橋の勝利であった。所詮は‶金を制する者票を制す〟であろうか。なおこの選挙での北海道の三選良は、高橋と東北叛藩北越長岡の士族森源三そして凾館の豪商平出喜三郎である。
しかし高橋が有卦に入ったのも束の間。政府の海軍拡張案とこれを否とする野党政友会が激突して十二月末に解散となった。三十六年三月の第八回総選挙では再び二人の対決となったが、源之助を推す公民会は十二月の区会選挙で大勝利を収めた余勢を駆って、彼をして雪辱を遂げさせたのである。それも河野広中議長による政府弾劾上奏で十二月に解散、三十七年の月の総選挙では二人は立たず金子元三郎が独走した。
明治四十年六月十五日。源之助は家督を継いだ六三郎に少なからぬ遺産を贈って他界した。板谷宮吉、渡辺、金子等と共に会議所特別議員に推挙された直後であった。ところが六三郎は伝統を誇る大竹回漕店を売却している。そして翌四十一年には奥野豊次郎によって合資会社大竹回漕店が発足した。また倉橋大介創始の小樽電灯舎が六三郎、倉橋の子伴造、そして伊臣慎、園田実徳によって資本金九万円の小樽電灯合資会社に改組されたのは四十年である。してみれ六三郎は電業に専念することになったのであろうか。それにしてもそれ以後の小樽実業史に彼の名を見出すことは至難となったのである。
~小樽豪商列伝(15)
脇 哲
月刊おたる
昭和40年新年号~42年7月号連載より
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